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哲学の入り口見学

今回は哲学について書きます。入り口までです。なので難しい表現は極力避けます。

「哲学」と聞くと「真理=究極の答え」の探求、を思い浮かべるひとが少なくないようです。

「真理=究極の答え」とは、簡単に言えば、「絶対に正しいもの」です。

哲学は自明に思えた前提にメスをいれます。

なので、むしろ、世間で「絶対に正しいもの」とされている何かについて、ほんとうに正しいのか、なんで正しいのかと問い直すことで、相対化する営みです。

「絶対に正しいもの」を支えに生きているひとにとっては、哲学は邪魔な存在です。

一部のひとは哲学を自己啓発と混同してしまっていますし、哲学書を装った自己啓発本もよく見かけます。

実際「哲学に興味がある」と言うひとの話を聞いてみると、欲しているのは哲学ではなくある種の「答え」であることが少なくありません。

哲学するということは「当たり前に思えている前提を考え直すこと」です。

「真理=究極の答え」を探すどころか、当たり前に思えていることがほんとうに当たり前なのかを考えるのですから、「答え」がほしいひとにとっては前進ではなく後退です。

芥川龍之介は「自由は山嶺の空気に似ている。どちらも弱い者にはたえることはできない。」と言いました。

哲学という相対化の営みは、あらゆるものから絶対性を剥奪します。これは、ある種のひとには耐えられないことです。

同時に、外部から与えられた価値観を問い直し相対化することで、ある種の自由を手にします。

哲学は山嶺の空気に似ているのです。

「神は死んだ」と言ったニーチェは「神」を相対化しました。

これは宗教の相対化として捉えられますが、あらゆる自明性の相対化でもあります。

絶対的な価値などどこにもない、という宣言です。

これは絶望ではない、とニーチェは考えます。

外部から与えられた価値ではなく、自分で打ち立てた価値観によって生きる自由を得るからです。

これがポジティブに響くひとは哲学に向いていますし、これからの世の中を生きるのに向いています。

いまの世の中の状況に目を移します。

共通の前提が崩れ、哲学をするしないに関係なくあらゆる価値が相対化されているのが現在です。

巷で流行っている「それってあなたの感想ですよね?」という指摘が強力に思えるのは共通の自明な前提がもはやほとんど残っていないからです。

昭和の時代なら「いいえ、これは常識です」と反論すれば済んだのですが、現在、常識は力を失っています。常識とは、自明に思える共通前提です。

どうも、これからの時代は哲学をしないひとも哲学をするひとと同じく相対化された世界を生きるしかないようです。

失われたからこそ、「絶対に正しいもの」に思える「何か」を探すひとは増えます。それに合わせて「絶対に正しいもの」を求めるひとをターゲットにしたビジネスや犯罪、団体が力をつけるのは容易に想像できます。

「絶対に正しいもの」に見える「何か」が前提にしている自明性について問い直す姿勢が必要になります。

その営みは哲学に似ています。

ただし、哲学は生き残りを助けません。「答え」を与えないのですから、当然です。

哲学のあとに残るのは自明性なき砂漠です。「答え」は用意されていません。

「答え」は、そのひと自身が砂漠に打ち立てたそのひとの価値観が導いてくれるものです。

まとめます。

哲学は前提を問い直す営みです。哲学は「答え」を与えません。世間で思われているような、有益なものではないのです。

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