液体金属の背景 Chapter2

思考(Cogitatio)とは、実際のところ共に‐揺れ動く(Co-agitation)ことでないとしたら、一体なんであろうか?
――ミシェル・セール「作家、学者、哲学者は世界を旅する」

彼らは繰り返した。お互い誰かを轢き、追いかけ、または追いかけられた。彼らは徐々に自覚的になり、反復の幾つかの特徴を把握した。逃走ないし追跡をやめ、共に逃げたり、ばらばらな方向へ歩みを進めたりしても、同じような反復に戻り、その度に誰かが巻き込まれる。ただ日が暮れる頃には反復から抜け出し、それぞれの生活に戻ることができた。誰からも事態を指摘されることもなかった。それぞれの家庭や職場では普段通り過ごしていたことが他人によって把握されていた。やがて、彼らの疲労や苦痛は日常の背景に溶け込んだ。
投影された影ではあるが、男にも女にも任された仕事があり、家庭があり、子供がおり、親がおり、友人がおり、誰かにとっての彼らは最も大事な人のうちの一人だった。
男は帰宅した。今日は営業回りの最中女と三度に渡り人を巻き込んだ。夕方になると反復から抜け出せるようになり、事故車も死人もなく、何事もなかったかのように会社に戻った。得意先から打合せの議事の連絡があった。さっと目を通し学童に娘を迎えに行った。
娘は六歳で、帰り道すでに小学校三年生の漢字が書けると言って自慢してきた。男は娘といっしょに夕飯の準備に取りかかった。
女も帰宅した。昼休みから夕方にかけていつもの反復があったが、会社に戻ると手をつけていないはずの仕事はいつも通り終わっていた。帰りに保育所により息子を迎えに行った。夕飯の準備にとりかかろうとたが、まず息子の仮面ライダーごっこを戒め、片付けを命じた。

彼らが誰かを巻き込み、役割を交代させ、また巻き込み、そしてなかったことにするために費やされた溶融鉛は、有意識槽の肥大化を招き、直径が139820kmを超過した。もはや外部からの進行波の重複による圧縮と極点から放たれるプラズマによる核融合反応は不要であり、結晶化し沈殿した鉛と液化した水素が層を成した。対流により生成された磁場の赴くままに、層状の界面は剥ぎとられ、いくつもの鉛の筋が飛び立ち、戻ってきた。有意な伸縮性を備えていたはずの有意識槽内壁は破損し、重力探知方位計は指すべき道標を失った。各点から送信されるデータは自らの立脚するところを水平とみなし、統合情報部は矛盾を解消できずに暴走した。とめどなく与え続けられる擾乱に金属球を中心とした液化鉛の放物線はより巨大化し、最外球殻は完全に破壊されて飲み込まれ、むき出しの溶融鉛の光が虚無の広がりに一瞬顔を見せた後、急速に表層は冷却され、固体化した放物線は潮汐力によって粉砕し赤道軌道上に収束、被膜生成により再び静かに浮かぶ一個体となった。
この間およそ4億年、彼らが夕飯を食べ、頬張った一口が咀嚼されて飲み込まれる、舌の上で弾ける味覚が様々なピーク値の稜線を走りながら過去の記憶と参照され、新たな関係として成り立ち、産毛が沸き立ち霧の立ち込める草原の空気を吸い込んだときのような充足、飲み込む後悔を感じていた時間。また風呂に滲む疲労を見送り、あってないような視界に焦点を消している時間。また布団に潜り寒くなってきたなとか思う間も無く消えそうな意識を弄ぶ無邪気さに身を任せていた時間。全てそういった時間のうちに起きた。
投影された純粋経験は例えることのできない原初なので、それらが認識可能となるまでには投影先主体の経験と参照関係に依存する。彼らには彼らの時間があった。時間こそが相対的に存在しうるものだった。明日になればまた同じような日々が繰り返される。誰かを犠牲にすることで反復し、その歪さが保存されえない日常において最も重要だと信じているものを守るために今日も生きなくてはならない。そこに合理的な判断はなくまた無意味であり、個々であるがゆえに発生しうる関係の制作において都度成り立ちうる価値基準に従い動き、触れ、また作られるかけがえのなさ。朝を迎え、彼らは起きた。
男は娘を送り、女は息子を送り、それぞれの職場に向かった。赤い朝焼けだった。男は通勤途中、満員電車の中で見たことの無い男性が車に轢かれるのを見た。内臓がねじられる驚愕と悲壮感に男は途中の駅で降りてトイレで吐いた。涙が止まらなかった。女は見知らぬ女性の手のひらが徐々に冷たくなっているのを、運転中のハンドルから感じた。霧のような絶望と無力感が身体をこわばらせ、路肩に止めて水を飲んだ。水が光っているように見えた瞬間真っ黒になり透明になった。
何とか男は職場につき、自席についた。いるはずの無い息子のために夕飯を何にしようかと考えている自分がいた。乗ったこともない観覧車から観たこともない景色に喜んでいた事を思い出していた。窓から見慣れたはずの景色に新鮮さがあった。娘の高校の卒業式の記憶もこみ上げてきた。娘は一人暮らしを始めて家には男一人になった。遠い昔のことだった。懐かしい柔らかな感覚があった。こちらを見下ろす二人の人間がいた。ぼやけた視界はあてにならなかった。手のひらを通じて交わされた熱だけが信頼を置けるものだった。
女も職場につき自席に着いた。存在しえない娘と行ったこともない遊園地で遊んだ事を思い出した。使い込んだキーボードの手触りが新品のようだった。息子の反抗期が激しくて困っていることを友人に相談したはずだった。返事はまだなかった。一人暮らしになった女の眺める庭先にさす日の光が暖かい、そういう日があった気がした。転んだときに擦りむけた膝から溢れる血の黒さに泣いた日があった。無いはずの膝の傷がうずいた。
彼らは何かに触れるたび、それらの旅路を追った。どこから切り出されてきたのか、どのような手を加えられたのか、いつからそこにいて、これからどうなるのか。知らないはずの誰か、経験していないはずの未来、通じえない物質について刻まれた時間が読解可能な形に書き換えられて彼らの中をめぐる。
彼らは外に出た。そして出会った。これから起こり得ることは何もなかった。それらは全て彼らの中にあり、つまり彼らの外にあった。繰り返しは極小に縮退し一点となった。空は雲が消し飛び紫色になった。彼らを空から彼らが覗き込んだ。一瞬で光に包まれた。溶融鉛が張りぼての景色から溢れてきた。彼らは混じりあって光の中に溶け込んだ。私たちは知らなかった外部に立ち向かう必要があった。
球は爆発し消滅した。

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