2024.8.23

6月に息子が産まれて、現在育児休業中であり、家事育児をこなしつつも働いていた時よりも時間的・体力的に余裕が出てきている。なのでこうして文章を書こうとして実際に書ける。今まさに次の授乳時間までの間の時間でPCに向かうことができている。(息子は指を吸いながらもうすぐ寝そうだ。)
朝から定時まで働き、いったん帰宅してから子供をお風呂に入れ、寝かしつけをし、そのあとまた在宅で仕事をし、終わったら家事をして失神に近いやり方で寝る生活は、当時はそこまでキツイと感じていなかったし、それ以外やり方もなかったのであるしかないって感じだったけど、こうして仕事をしないでいるとかなりきつかったんだと認識できる。
10月から仕事に復帰するけれど、どんな生活リズムにしようか妻と相談することが増えてきた。やはりかなり無理をしていたというのは二人とも同じ意見だけれども、お風呂入れを(しかも二人分も)一人で毎日こなすのも大変なので、当面は以前のやり方を踏襲しつつ、保育園の送迎等で負荷分散できないか考えている。


合理的といったとき、この言葉の指す理(ことわり)とは何かしらの立場からある方向を持った視線と考えてみる。たとえば経済的な合理性といったときは、手元に残る資金の大小や利益の大小により打ち手の妥当性を議論することができるようになる。技術的な合理性といったときは、有形・無形に関わらず、系を構成する諸要素やその関連を実現する方法が、系の目指す目的に合致しているか否かを議論の論点と据えることができるようになる。
つまり何かしらの正しさを仮構し、そこに対し現在地はどこになるのかを把握し、そこへ向かう最短距離を実現することを指向すること、とも考えられる。
至極当然のことながら、(ここで授乳時間になったので離席、息子はすっと寝てくれた。)物事を捉える視点を単一に限定すると、物事の様子は静的かつ単一であり、それに対し疑う余地もない。ただ実際はどの理を採用するのかによって物事の様子は変化するし、他人の見方と位置によっても変化する。これを互いに理解していないと話が建設的にならないし罵倒の応酬となる。(もちろん、これも議論や会話は建設的であるべきという私のものの見方からみた合理性であり、罵倒の応酬に重きを置いた価値観だとこれは理想的な状況ともいえる。)
つまりは「他人は自分ではないし、違った考え方をしている」と直観的にも経験的にも理解していることはとても肝要である、ということが言いたい。
この観点からは、合理性とは呪いのようなものだとも考えられる。特定の視座と正しさを与え、それ以外の物事のとらえ方を排斥し、理の体現者として理と自我の境界を積極的に消失させるよう過激に傾倒させることで、その人は破滅する。物事のとらえ方の道具として過ぎない理が、道具の主である人を破滅たらしめるのは、まさに呪いといっても過言ではないだろう。
するとこの呪いから逃れるすべを身につけることが成熟とも考えられる。自分の考え方や視座を自分自身で解体し、ある種の自己否定ののちに新しい場所と視線を再制作する方法。
……そういえば似たような話この本にも書いてあったなと思い出した。


階段を間接照明にしていい感じの雰囲気にしたい。なかなかいいアイデアが思い浮かばない。


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