2019.12.10 どうにもならないことをどうにかしようとするためには
ここに書かれている文章はその他の記事と同様どこかの他人に向かって書かれたわけではなく、僕が僕自身のために書き留めているものである。何か伝えたいメッセージみたいなものはない。いつも通りTwitterで共有するがいつもの習慣を崩さないためでありそれ以上の意味はない。この断りにも何の意味もない。
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今直面しているどうにもならないことに動揺している。動揺というのは時間が経つにつれて落ち着いてくるものだが、今回は時間が経つほどその振れ幅が大きくなるのを感じている。
論理的に線形的に解決できることとそうじゃないことがある。後者を前者と同じ方法と割り切りで処置しようとすると大失敗をする。少なくとも今僕がしているような仕事、多くの勤め人がしているような仕事は非線形な現実を出来るだけ詳細に線形的なモデルに置き換えて、読解可能な形に当てはめることで読めない現実を解釈し、過去から参照すべき、その労力に見合った箇所を抽出し、未来を安定させようとする。出来るだけ唐突に何かが現れたり失われたりしないように、つまりは平和であるように。
しかしこの構造はモデル化、離散化という手法をとった時点で、微視的ないし巨視的に再現不可能な、低確率な現象は棄却され無かったことにされる。
起こることが稀であることと、起こることがどのような影響をその起こることが属している系や起こることを為している系に及ぼしうるのかは、比例的に扱われることが多いが正しくない。リスクは発生頻度とその影響の積により表現可能と聞いたことがある。つまり発生頻度が極少であってもその影響がはるかに極大であるならリスクは大きくなる。
日常を日常足らしめるために僕たちは繰り返される季節や投げたら必ず落ちてゆくボールの軌跡等を観察し、未来を予測し、世界を均している。激しく波打つ地面に立つことはできない。そのまま溺れて窒息していくしかない。
しかし唐突に地面が液状化し足を取られることがある。僕らは慌ててもがいたり、もうダメだとかいって諦めたりする。足を取られた時点で僕らの手持ちの道具ではどうすることもできないことが分かるからだ。起こりうることと起こったことの深刻度は関係していない。問題なのはその積であり、我が身に降りかかったときの応力だ。よってどうにもならないことをどうにかする必要に迫られる状況に陥ることがある。
線形的な処置により解決し得ないということは、問題が解けないということではなく、そのやり方では解は発散していて辿り着けないということだ。つまり因果律に応じた関係で接続される線上を辿るのではなく、新たに線を引き直す必要がある。
新しい線は新しい形から始まる。その場に適した、場のポテンシャルを引き出す無根拠な生活所作の配置。それらは一挙に理解せられなくてはならない。各々の集合ではなく、あるまとまりとして在らねばならない。そしてその形からなる場の歪みから、こぼれるものをすくいだすか手を持たねばならない。そのために、自分自身さえ形の一要素として投げ出さなくてはいけない。
この文章はその一環としてある。
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