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医療の多様性
先日、たまたま介護を手伝うことがあり、久々に病院の中に入ることがあった。
そこでは、やたらと立派な病院施設と裏腹に、もう余命は長くないだろうと言う80歳以上の後期高齢者の方々がずらりと並んで車椅子に座り、TVを見ながら食事をしていた。
それはもうすぐ80になるといううちの畑の隣の、煙草をバンバン吸っている婆ちゃんの姿とは違って衝撃的だった。
医療現場の現実と乖離
担当している看護師さんたちのほとんどは女性で、白衣を着て清潔に保ちながら、話が通じているのかどうか分からないお年寄りたちの世話をしている。
不謹慎な話になるが、俺はここで「ものすごい違和感」を覚えた。
医療現場特有の立ち込める死の雰囲気と、それに似つかわしくない白々しいまでの清潔感。
用意されていた個室は、何の生活感も無い殺風景で真四角な部屋で、申し訳程度のTVとベッドだけが備え付けられている。
……これが、人生の終焉を迎える場所だというのだろうか?
だとしたら、人間の人生っていうのはなんて味気ないものなんだ……?
ここでずっと仕事をしている人々は、精神的にすり減っていくのは間違いない。
自分で言うのもなんだが、俺は一応常に精神的には健康を保っているつもりなので、その先々で感じた直感には従うようにしている。
その直感からすると、この現代の日本のほとんどに普及している医療現場について、疑問を持たざるを得なかった。
医療には、もっと多様性が必要だろう。
医療現場の背景とバランス
まずは背景を探る。
……おそらく、社会にとって生産性を生まないマイナスの存在は、経済の中心地から隔離して分業制を敷き、専門家によって管理される形が最も効率的で合理的なのだろう。それによって、それなりの経済が循環するようになっている。
だが、ここに来てそのバランスは傾き始め、需要が供給を大きく上回りつつある。今のこの状況に加えて、ロボットが導入された後の現場を想像してみると、何だか複雑な気分にもなってくる……。
俺の仮説の中では、マイナスには他のプラスで補填するのではなく、他の軸のマイナスを組み合わせることによって、価値の要素転換が起こり、プラスが生まれる可能性が高いと思っている。
代表的な例が愛知県の『ゴジカラ村』だ。
それで行くと、パッと思いつくのがコミュニティ化であり、病院にもエンターテイメント施設を加えることにより、入院患者たちのQOLが上昇するのではないかと思った。
医療現場を開放することのリスク
だが、医療機関で重要なのは微生物マネジメントなので、外部からの来客を増やすということは、その分医療的リスクを負うことになる。それは確かに避けたい所だというのも分かるため、実現は難しいかもしれない。
しかし、実際に介護をしている方から聞いた話によると、『誰かに介護されている状況よりも、住み慣れた自分の家で暮らした方が症状は改善する場合がある』らしい。
おそらくこれは、選択肢の問題だ。
人々が長い間避け続け、目を背け続けてきた『死』と向き合うかどうか。
医療行為を選ばず、死を受け入れることで最後まで日常で生活するか?
死を誰かに任せて、自分はその分の価値を補填する生き方をするかどうか?
……少なくとも俺は、あの何も無い病院のベッドで最後を迎えるよりは、野生動物に食われるか、痴情のもつれで刺されるか、宇宙で餓死するか野垂れ死ぬ方を選びたい。(窒息と圧死だけはトラウマがあるので嫌)
医療の多様性とは
一応俺も長男の端くれとして、親の問題はいずれ表面化してくると思うので、時間はかかるにせよ、この問題には少しずつ取り組んでいきたいと思う。
とりあえずは農村JACKの介護拠点として、爺さんたちがシングルマザーたちと暮らしながら、子供たちの面倒を見て、色んな人と交流し、死ぬまでコミュニケーションを取りながら、死んだらみんなであの世へお祝いの祭りで見送ってやれるような場所を作りたいものだ。
興味ある人は、一緒にやりましょう。
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