れいて撤退

当事者と野生の思考

圧倒的なフラッシュバックがやってくるようになって、今までの自分が崩れた。

これからどう生きていけばいいか、わからなかった。

廃人のようになって、その後もこれ以上しんどい思いをしてまで生きていきたいと思えず、生きてきた。

あれから30年弱、生き残るためにやってきたことは何だったのか。うまく言葉にできなかったけれど、徐々にやっていこう。

自分に直接影響を与える感じ方や認識を変えていくにはどうしたらいいのか。僕は言葉を吟味し、確かで使えると確かめた言葉を取り入れ、そして必要に応じて、重要な言葉の定義は自分で決めた。

そうして思考回路を作っていった。停滞する現実をひらくために。見えていなかった機序を発見し、把握するために。思考の妥当性は、自分の停滞状況を変えていくかどうかという基準で作られた。

誰かに普遍的な真実を証明する必要などない。ただ自分が変わっていくために特化した思考回路を作っていった。当然、人に通じない。だが、それでもなお世界に触れ、確かめ、更新していく。

すると、考えてたどり着いたことは、当事者や妥協なく探究している人たちには通じるようになった。学問的な根拠など何もない。だが実践をしている人の感覚には通じる。それは自分にとって、参照基準になった。

ある考えが妥当かどうかは、妥協なくそのことを探究している人に通じるかどうかによって確かめた。自分の仮説が、その人の疑問を解くかどうかを試した。

フラッシュバックが始まってから10年以上たって、レヴィ・ストロースの「野生の思考」という考え方を知った。必要を満たすために、用を足すためにその場のあり合わせのものを組み合わせる器用仕事。自分はそれをやってきたのだった。

人は生きていくために殻を身につけざるを得ない。殻とは自意識としての自分であり、得た知識であり、技能であり、能力だ。そして、人間としての回復はその殻が壊されることが契機となってはじまる。

殻の代償は心の震えを失うことであり、自他の痛みに無感覚になることだ。殻を厚くする人はごく自然に自分で気づかず、自動的に自他の痛みを抑圧する。

人間は自分の殻を守り、厚くしようとする自動的な自己疎外を止めることはできない。他者によって壊され、傷つけられない限り。しかし、他者に殻を壊されることは、生存を左右することでもあり、傷つけられたからといって、回復は保証されない。そのままで弱り、歪み、死ぬ場合もあるだろう。

だが、そのようにしてしか、人間は自分の殻による疎外から解放されることができない。

僕の考えは心理学のようなところから入り、哲学のようなことになった。人間とは何か、生きものとはどういうものか、生きるとはどういうことか、それらを自分が生き残るために考えざるを得なかった。

言葉をもつ個人の根源的な動機とは、自分の根源的な痛みに対する反発力であるようだ。生きものとは、死に切れなさを生きるものだ。生きものは圧倒的な死に切れなさ、死の方向に対する反発力に駆動されている。

言葉は世界を作り、自分はその世界のなかで自動的に位置づけられる。それは、根源的な傷を生む。そして、その傷に対する反発力が自分の根源的な動機となる。鶴見俊輔ならそれを「親問題」というだろう。

当事者が野生の思考で考えてきたことは、既にあるジャンルには属さず、相手にされない。林竹二、竹内敏晴、パウロ・フレイレ、野口晴哉、野口三千三、自分が見たそういった人たちが実践でたどり着いたことは、まるで継承されていない。文字の名残りがあるだけだ。

賽の河原のように実践的知性は継承されることなく、いつもゼロからはじめられようとする。

そのような社会のなかで生きることは、ゲリラとして生きることだ。間隙を縫い、必要なものを探し、手に入れる。その繰り返し。

サバイバルには二つある。一つは身体のサバイバル。もう一つは自分が自分として回復していくサバイバル。自分が自分として回復していくとは、別の言葉でいうならば、自分の「時間」を動かしていくということになるだろう。

「止まった時間」としての「わたし」があり、それは「時間」との関係を回復させることにより、更新され新しくなっていく。古いOSが新しいOSになるように。言葉とは「止まった時間」であり、自意識である「わたし」は止まった時間しか認識できず、操作できない。

世界の耐えがたさは、それが「止まった時間」としてしか見えないことにある。精神は同じ風景しか見えないメリーゴーラウンドに倦んでいく。

「わたし」にできることは、「わたし」に「時間」を与え、古い「わたし」を終わらせ、次のものに更新すること。精神にとっての恵みとは、新鮮さなのだ。

「わたし」はただそのように時間を動かしていくことによって、救われていくだろう。

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