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かわりに私にできること

さてそんなこんなで
私は子供達を野放しにしています。

ここに辿り着く前は
かまいっぱなしでした。
私がカバーできるところは
全部するつもりでした。

他の人の手を煩わせたくはなかったんです。お友達のお母さんとか、先生だとか、習い事の人とか家の外の人の手を。
これは聞こえはいいですが
「もーう。この子は!」
って次男のことを思われるのが
私が嫌だったのかもしれませんね。
次男がというのではなく私が。

完全リンクしちゃってます。
よくないですね。
でもこんなもんでしょう。

子どものことを
「よくお手伝いしてくれます。」
みたいに褒めてもらえると
なんだか私まで労ってもらったような気持ちになりますよ。
これってみんなですよね?
ちょっとはリンクしちゃいますよ。
きっとそんなもんです。

話を戻します。いつまでもどこまでも私はついていくことはできないし、やってはいけないというのをとうとう知りました。

このままお世話になりっぱなしで良いのでしょうか?

私にはそれもしっくりきません。
世間様に子供達の成長を助けていただくだけというのは私はちょっとさみしいです。

私は子供達を見てるだけしかできません。
でも私のほかにもそんな人はたくさんいます。
別に子供に限らず、えてして人間は身近な人の意見がうるさく感じるものです。それが愛情からとしっかり知っていてもです。

そんな人からすると私は遠くの人なので、柔らかに作用できると思うのです。あるいは全く何もせずとも、ただ反応しないでいることだって立派な親切ですよね。

私はこの技術を学んでみたいと思いますよ。人を操作しようとは思いません。私の心が求めるのは、他の人が私や私の大切な人にしてくれて嬉しかったことです。

長い箸🥢という例え話がありますね。地獄へいくとお箸が長すぎてみんな自分のご飯が食べられないと怒ったり泣いたりしているらしいです。

ところが、天国に行ってみてもお箸は地獄のものとおんなじ長さなんです。天国ではみんなお互いに食べさせあってるのでみんな笑顔でいるそうです。

盂蘭盆会の目連(もくれん)尊者の話なんかも似てますよね。地獄のお母さんを助けるのには、現世の全く違う人々を助けないと助からないと言われます。
同じ仕組みだと思いますよ。

私の大好きな人が
誰かにお世話になるのを
私が気持ちよく思うには
私が気持ちよく誰かの
お世話をさせてもらうことです。

お隣のおばあちゃんの
お手伝いを私は
ドキドキしながらも
楽しくやっていますが
これは里の両親が
近所の人にお世話になっても
ああありがたいな
嬉しいなって思える
もとになるんです。
ちょっとばっかし
「またかー。」
とか
「今ですかー。」
と思うのも
いいことですね。
そっち側の負担具合が想像できますから。

そう考えると
世間は短いお箸
長いお箸
蜘蛛の糸のような細い糸
さらには糸ですらない
地球の磁場みたいなもので
複雑に絡み合ってできているように思います。

私にはそんなことは
計算できませんので
そこは天におまかせして
ただできることをやってみたいと思います。
できないことを嘆くのには飽きました。
何が起こるのかは全くわからないです。
何にも気にしないで、やりたくてやるぶんだけやります。
使命だとか義務だとかも思わないでやりたいなと思えるぶんだけやろうと思います。

岡潔の記事のように
心スタートで
私は何かの技を身につけることができるでしょうか?
あんまり強い技は身につけませんよ。
私はおっちょこちょいなので
失敗したらたいへんです。
薬でいったら
ビオフェルミンみたいな
優しい技を身につけたいと思います。

なんのはなしですか

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