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能力開花のイメージ

好きなことを只夢中になってする。
そのような能力の開花方法もある。

しかしそれだけ打ち込めるどうしようもなく好きなことに出会えるのは私のみるところごく一握りの人間だけだ。

必要に迫られてたまたまやってみたら、能力があった。
これも開花方法の一つだ。

必要の程度により、またそれを面白いと思うかどうかにより花の大小は変わる。
ここで一つ注意していただきたいのだが私は花の大小に別に重きは置いていない。

人に眠る能力はこっちから探すより、時がくれば自然にぶち当たるようになっている気がする。

能力にめぐり合わない方が遠目にみると幸せなようにみえることもある。なにもわからない、

とにかく能力開花のロック解除はたいていあっちからやってくるイメージだ。
こっちから探す時もあるが、探さなくてはならない状況があっちからやってきてるのでこれは同じことに思う。

生老病死の苦しみとそれを取り巻く慈悲と智慧との間に開花チャンスは多くあるように思う。

開花するのが幸せなのかそうでないかは自分で決める。

開花してしまったら、それを幸せと考えたほうが幸せだろうが、実際そんなことが可能かどうかは何もわからない。

苦しみの中に見つけた美しさを表現するのに芸術がある気がするのだ。

それは時に詩だったり、音楽だったり、絵画だったり、その人の生き方そのものだったりする。

遺伝子の情報の中にも能力がたくさん潜んでいる気がする。

人間の遺伝子の中には人間の形を作る情報以外に、いったいいつ使うのかという海の中にいたころの情報まで含まれる。先祖たちが罹患したのかどうかは知らないがウイルスなんかの情報もたくさん入っているのだ。全く不思議なことだ。

しかるべき状況が整えば、この遺伝情報のロックが解除され、ある日突然腕が羽に変わって空を飛べたりするんじゃないかと私は思う。

しかしながら、明日の朝目が覚めてみて布団がびしょ濡れで、自分の脚が鱗まみれの魚の下半身と入れ替わっており、海の中を自由自在に泳げるようになっていたとして、(私のちょっとした願望だ。)それで私がいったい幸せなのかどうかは全く想像がつかない。

ただなりゆきを生きるだけだろうと思う。

今朝起きて、私は相変わらず人間だった。

変わらずの1日をそれなりに楽しもうと思う。

蝉がたくさん鳴き始めたなぁ!







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