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女の散歩道

カフェでお茶、レストランでランチもいいけれど、お散歩しながら友達とお喋りするのはいいものです。

特になにもない時は移動しながら変わる目に映る景色を一緒に楽しめばいいですし、リースに使えそうな木の実を探したり、道脇の家々のお花をのぞいてまわったりするのもお散歩の醍醐味です。

そしてとっても辛い時も、おしゃべりしながらの散歩は気がほぐれます。

たぶん椅子に座っておしゃべりに専念するとぐるぐる思考から抜け出られないんじゃないでしょうか。

ぐるぐる思考からぬけるには、実際自分も歩いてみることです。

考えることと現実は奇妙にリンクすると私は思っています。

ひどく悲しい話をしているのに、木の実を上手に見つける自分を発見すると、なんだ私にはこんな力がまだ残っていたんだなとわかります。

私はこんなお散歩をしたことがあります。


その頃私は四つか五つかあるいは大きなひとかたまりか、どう数えていいのかわからない問題を抱えていました。

今思うと一定期間ごとに会う友達が、私が全く連絡をよこさないのを心配に思ったのかもしれません。

散歩に誘って来てくれました。

外を歩けば少しは気が晴れるかもしれない。
私はその提案にオッケーし、せっかくだから楽しもうとその季節に適した散歩コースを考えることも引き受けました。

新しい散歩コースを地図を見ながら決めるのは私にとってとても楽しい作業です。作業の間は悩みを忘れることができます。

そうして迎えたその日、私はモヤモヤを話すつもりはありませんでした。

しかし散歩して歩くと心もほぐれます。

私は私の考えた最上のコースを楽しんでもらえるように見どころを紹介し、彼女をエスコートしながら歩みを進めるうちに結局悩みを話し始めました。

足は止めません。歩きながらです。つまり心はどんどんほぐれていくんです。
涙が止まらなくなります。

しかもこの問題たちはひどくこんがらがっていてどこから話して良いかわからない類のものでした。

泣きべそをかきながら
あっちへとんだり
こっちへかえってきたりする
私の話を
彼女は私の横を一緒に歩きながら
ときどき短い質問をしたりして
整理しながら聞いてくれました

一度たりとも歩みを止めずに。
一度たりとも私の話も止めずに。

そしてふたつのことを
いっぺんにすることの
苦手な私は
今自分が何を話しているのか
どうもよくわからなくなりました。

歩くのをとめて
ちょっと周りをみると
ここはどこでしょう?

コースから大きく外れてました。

「どうやって駅まで帰るんだっけ?」

私は聞きました。

「こっちをまっすぐ行けばいいわ。私と一緒に行けば大丈夫。」
「話、つづけてね。」

友達が言ってくれました。

そうしてそのまま今度は彼女の
エスコートで私は話しながら
駅までつきました。

駅までついたら
その日の待ち合わせ場所
つまりゴールまでは
体が覚えています。

もう大丈夫。
きっと戻れる。
私は思いました。

涙が引っ込んで
さっき一瞬迷子みたいに
なったことを
2人で笑いながら
帰りました。

不思議な散歩でした。


考えごとがあるとき、
ちょっと歩いてみるのは
いいことだと思います。

考えごとがちょっと複雑なときは
信頼できる人に付き添ってもらって
歩くのがよいと思います。

この提案は京都に
「哲学の道」
っていうのがありますから
別に珍しい話じゃないかも
しれないのですが、
私はとてもよい経験をしたと 
思っているので書きました。

私もきっと元気なときは
誰かの散歩に
付き添えるはずなんです。

なんのはなしですか

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