酷いのはMC
ウイル・スミス
現地アメリカ人が批判しても、同情の意見を揺るがすことはない。
病気で気に病んでいる人を電波に乗せてからかってる。
許されないでしょ。
ブラックジョークでは終わらせてはいけない。
これで、ウイル・スミスの奥さんが自殺でもしたら、アメリカの論調は、一気にMCの放ったブラックジョーク、アカデミー賞の審査員の批判になるでしょう。
そして、その感情だけの判断は、多くの金を払わせることで終息してします。
今回の件は、病人をターゲットにした、という確信犯で有ることが救われない。
ドギツかかろうとジョークは、ジョークてなくてはならない。
対象がやらかしたミス、見た目、そこをいじるなら、いじられた人が、笑われたことをプラスに変換できる隙間や余力を持っていることを考えないと。
その配慮がなければただの悪口でしかない。
今回は、ただの悪口だ。
ウイル・スミスが名誉を得たから、茶化してもいい、という理由はない。
傷つけられた人はただ傷つき癒される見込みはたたないのだから。
テレビに一方的に悪口を流されたことになる。
旦那が、有名人になったとはいえ、払うべき有名税ではない。
ウイル・スミスの暴力を暴力として批判していいのか?
目には目を歯には歯をは、許されなくなったのか?
まず、言葉の暴力はまだ認められていない、ということ。
言ったもの勝ち。
笑いを取れたら、ヒーローにすらなれる。
この風潮があるから、ネットの批判記事が止まらない。
書いたもの勝ち、言ったもの勝ちという風潮は失くさなければならない。
そんな中で、大きなメディアで行われた、悪口と悪口を良しとする風潮は変えなくてはならない。
ウイル・スミスの暴力が不快な暴力だったのか。
いきなり人を殴るという行為は、それを目撃した人にとってはショッキングだったと思う。
不快になった人もいると思う。
でも、人生、事なかれ主義で、何事もなく平和ならいい?
手を上げた時のウイル・スミスは、病気の妻を笑いのネタになれて、傷ついている。
屈辱にまみれた男が暴力を使ったとき、それに対して、いかなるときも暴力はいけなかった、と翌日、コメントを上げるのを見ていて、不快にならなかったのか?
暴力を見て不快になった人とお詫びのコメントで不快になった人がでてきたわけだが、どちらも、不快になってもやむを得なかった人だと思う。
それを目にしたのだから、諦めろとは言わないけど。
生きていれば、不愉快な事に遭遇することもあるし、不愉快だから、その原因に文句を付けたくなることもあるだろう。
でも、ウイル・スミスの件を見ると不快なことがあってはならない、という風潮があることが、明確になった。
人として当然の感情を持つことすら否定されるのか?
理由が事なかれ主義か?不健全だし、その虚構の上で番組を作っていたら、見ている側は、呆れ果てて離れていくだろうと思う。
テレビという放送メディアの終末というより、表向きだけを取り繕う世の中の限界を感じる。
ウイル・スミスへの批判は、頭に来たのは分かる。
でも、やり過ぎちゃったね、というレベルだったと思う。
先のブラックジョークは許されないが、ウイル・スミスがうまいジョークで返しても、話題にすらならなかったろうから、これはこれで、よかったと思う。
アカデミーから排除なら、新しいアカデミーに代わるなにかを。
ウイル・スミスを消してはいけないと思うし、このMCを使う時には、使い手が悩む状態になるのが、正しいと思う
スミス騒動日本で同情多い訳|ニフティニュース https://news.nifty.com/article/world/worldall/12184-1571766/ #ウィル・スミス #アカデミー賞 #芸能ニュース #海外総合 #ニフティニュース
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