適性とはなんだろう

 なんとなく文章を書きたくなったので寝る前に少しだけ書こうと思う。


 「適性」という言葉は三船栞子を考える上で外せない概念だ。虹ヶ咲2期7話においても重要な位置にあり、されどもあやふやさが拭えない言葉でもあると思う。

 上のように書いたが、これは「適性」が特殊な例なわけでなく、我々が普段から使用している単語は例外なく"ブレ"があるはずだ。私は"単語"を「脳内で発生したイメージを外部に伝達するフレーム」というふうにイメージしている。
 頭で生じたイメージを情報として誰かへ届ける際に使用されるプロトコル――"言語"にはあらかじめ用意された"単語"が存在する。それぞれの"単語"にはどのようなイメージをパッキングするかの決まりごとがあり、一般的にそれは辞書に載っているようなルールに従う。
 例えば、自分が「物事が自分の望みどおりになって満足であり、喜ばしい。自分にとってよいことが起き、愉快で、楽しい。(goo国語辞書)」と説明されるような情緒を感じたときに「嬉しい」という単語に感情をパッキングして相手に伝えるだろう。このように、自分が感じたもの、脳内で抱いたものを共通のプロトコルに近似したもの"単語"……というイメージを私が持っているという話だった。

 そして、「適性」という語に込めるイメージは、私と栞子では異なっていた。もっと言えば、私と同好会は同様なルールで「適性」を用い、栞子はそれと異なるルールで「適性」を使用した。
 栞子は「その人の能力が活かせ、結果が残せる」ことを適性と表現した(正確には違ったかもしれないけど)。対して私は「その人がやりたいと思える」ことを適性だと思う。

 この差異は、軸を自分の内外どちらかに置いているかの違いだと考える。
 栞子の場合は軸を外に置いていたのだろう。ラブライブで結果を残せるかどうかを適性の有無と紐づけていたことからそう感じる。自分以外の誰かが設置した評価軸の上でプラスになれることこそが栞子のいう「適性」。テストでいい点をとれるから「適正」がある。まあ正直、こういう使われ方(ルール)が一般的だとは思うが。
 対して私が思う「適性」は軸を自分の中に置く。自分がやって楽しいと思えるか、満足できるか。これこそが「適性」だと私は叫びたい。いくらテストでいい点を取れても、それに楽しさを見いだせないならば「適性」はないのだ。逆に、テストでいい点が取れなくても、自分が楽しければ「適性」があるのだ。
 ……またこの話になってしまった。

 順序が前後してしまったが、ここで一般的に使われる「適性」のルールについても見てみよう(ライブ感で書いててごめん)。「適性」――「性格や性質が、その物事に適していること。また、その性格や性質。(goo国語辞書)」。これだけだと栞子と私、どちらの使用法も誤りではなさそうだ。この場合、"適す"についても考える必要があるのだが、なんにせよ、"単語"にはこんな風に"ブレ"が生じる余地がある。
 これは単純に疑問なのだけれど、"単語"の意味を一義的に定めることって可能なのだろうか?我々が"単語"を使用して"単語"を説明している時点で、文章には"ブレ"が内包されるように感じる。学部によっては1年生で勉強していそうな疑問だね。

 結論とか何も用意していないけれど、適性と言っても色々あるよねっていう文章だった。雑に文章を出していい感じになったので寝ます。おやすみなさい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?