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心が片輪に その1

靴を磨いたり、服を着たりはできる。
髪に櫛を入れたり、イカス恰好もできる。
素顔を、微笑のうしろに隠したりもできる。
だが、どうにも隠せないものが一つある。
それは、心が片輪になっている、その時だ 。
(「心が片輪に」ジョン・レノン・三木卓訳)

E.フロム「自由からの逃走」昭和26年12月30日 初版/昭和40年12月15日 27版(新版)/昭和62年10月20日 94版/東京創元社 より
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我々は現代にまで辿り着いたが、さらに、ファッシズムの心理学的な意味について、また独裁制度のもとに於ける、及び、我々の民主主義のもとに於ける自由の意味について、論じていくことにしよう。

しかし、我々のすべての論議が正当であるかどうかは、我々の心理学的前提の妥当性によって左右されるのであるから、思考の全体の流れをここで中断して、この章では、我々が既に触れたところの、またこれから更に論じていくはずの、心理的メカニズ ムについて、もっと詳細に、またもっと具体的に検討することにしよう。

なぜこれらの前提を詳しく検討する必要があるかといえば、その基礎には、多くの読者にとって、まったく縁遠いものではないとしても、やはり説明を必要とするような、いくつかの概念が使用されているからである。それらの概念は、無意識的な色々な力を、またその力が合理化され性格的な習性となって表れる通路を、取り扱っているのである。

この章では、私は特に、個人心理学や、個人の綿密な精神分析的研究による様々な観察を取り上げたいと思う。もちろん精神分析は、アカデミックな心理学が理想としている自然科学的な実験方法による接近という点では、まだ理想にまで到達していないが、しかし、それはやはり完全に経験的方法である。

すなわちそれは、検閲されない個人の思考や夢や空想についての、骨の折れる観察に基礎づけられている。無意識的な力の概念を利用する心理学だけが、個人や文化を分析する際、我々が誤って犯している合理化を、突き破ることができる。もし我々が、人が自分ではそれによって動かされていると信じているその動機と、実際に彼らを行動させ、感じさせ、考えさせている動機とが、一つのものだという考えを捨てさえすれば、今まで解釈できないと思われていた多くの問題も、たちどころに消えてなくなることであろう。

多くの読者は、個人を観察して得られた発見が、果たして集団の心理学的理解に適用できるかどうかを疑うかもわからない。この問いに対して、我々ははっきり役に立つと答えよう。どのような集団も個人によってできたものであり、しかも個人以外のものによってできているものはない。それゆえ、集団のなかで働いているメカニズムは、個人の中で働いているメカニズムにほかならない。 社会心理学を理解するために個人心理学を研究することは、顕微鏡の下で、ある対象を研究することにも比較されよう。こうして、社会過程のなかで大規模に働いている心理的メカニズムを、微細にわたって発見することができる。もし我々の社会心理的現象の分析が、個人的行動の詳しい研究に基礎づけられないならば、それは経験的ではなくなり、従って妥当性を失うことになろう。

しかし、個人の行動の研究が大切だとしても、一般に神経症患者とレッテルを貼られているような個人を研究することが、社会心理学の問題を考えるときに、なにかの役に立つであろうかと、問うものもあろう。この問いに対しても、我々は再び肯定的に答えなければならないと思う。

我々が神経症的な人間について観察している現象は、原則的には、正常人に於いて観察される現象と異なってはいない。ただそれらの現象は、いっそう強いアクセントがつけられ、いっそう直截であり、しかもしばしば、正常人は問題を十分理解していないのに対して、神経症的な人間は問題をいっそう意識的に受け入れているというだけである。

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