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1億総下層中産階級 その8

E.フロム「自由からの逃走」昭和26年12月30日 初版/昭和40年12月15日 27版(新版)/昭和62年10月20日 94版/東京創元社
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すなわち愛は「好むことではなくて、その対象の幸福、成長、自由を目指す積極的な追及であり、内面的なつながりである。それは原則として、我々をも含めたすべての人間やすべての事物に向けられるように準備されている。排他的な愛というのはそれ自身一つの矛盾である。

だしかに、ある特定の人間が明らかに愛の 「対象」となることは偶然ではない。このような特定の選択を条件づける要素は、非常に数が多く、また非常に複雑で、ここで論ずることはできない。

しかし重要なことは、ある特定な「対象」への愛は、一人の人間のうちのもやもやした愛が、現実化し集中したものに過ぎないということである。

それは、ロマンティックな恋愛観のいうように、人間が愛することのできるのは、この世でたった一人しかいないとか、そのような人間を見つけることが人生の大きな幸運であるとか、その人間に対する愛は他のすべてのものから退くことであるとかいうものではない。ただ一人の人間についてだけ経験されるような愛は、まさにそのことによって、それは愛ではなく、サド・マゾヒズム的な執着であることを示している。

愛に含まれる根本的な肯定が愛する人に向けられるとき、それは愛する人を、本質的に人間的な性質の具現したものと見ているのである。 一人の人間に対する愛は人間そのものに対する愛である。人間そのものに対する愛は、しばしば考えられているように、特定の人間に対する愛の「後から」抽象されたものではなく、また特定の「対象」との経験を拡大したものでもない。人間そのものに対する愛は、もちろん発生的には、具体的な個人との接触によって獲得されるものであるが、それは特定の人間に対する愛の前提となっている。

こうして、原則的には、私自身もまた他人と同じように、私の愛の対象である。私自身の生活、幸福、成長、自由を主張することは、そのような主張を受けいれる基本的な準備と能力とが存在していることに根ざしている。このような準備をもつものは、自分自身に対しても、それをもっている。他人しか「愛する」ことができないものは、まったく愛することはできないのである。

利己主義と自愛とは同一のものではなく、まさに逆のものである。 利己主義は貪欲の一つである。すべての貪欲と同じく、それはひとつの不充足感をもっており、その結果、そこには本当の満足は存在しない。貪欲は底知れぬ落とし穴で、決して満足しない欲求をどこまでも追及させて、人間を疲れさせる。

よく観察すると、利己的な人間は、いつでも不安気に自分のことばかり考えているのに、決して満足せず、常に落ち着かず、十分なものを得ていないとか、何かを取り逃がしているとか、何かを奪われるとかいう恐怖に、駆り立てられている。彼は自分より多くものをもっている人間に、燃えるような羨望を抱いている。

さらに綿密に観察し、とくに無意識的な動的な活動を観察してみると、この種の人間は、根本的には自分自身を好んでおらず、深い自己嫌悪をもっていることがわかる。

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