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ダーウィンの個人的事情と進化論の関係

「ダーウィンは、機械化時代に機械的な生物社会の概念を確立したのである。人間社会の闘いを、動植物の闘いに置き換えてみせた。私有財産相続制の社会において、生き残るためにいちばん大切なものは、占有と遺伝であると述べた」➡ ジョフリー・ウェスト『ダーウィン伝』

ジェレミー・リフキン「エントロピーの法則2」21世紀文明の生存原理 1983年11月5日 初版第一刷発行/祥伝社 より
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ダーウィンの両親はともに中産階級に属し、思慮分別に富み、安定した財産に支えられ、生活の心配は何一つない人たちだった。律儀な個人主義者であり、まじめで独立心も強く、文化や芸術にも関心を持ち、どんなことに出会っても断固として世の中を渡っていく意志強固な英国人タイプだった。

ダーウィン自身、自分の幼年時代を振り返り、快適だったが、特筆すべきこともない平凡な生活だったと書いている。少年時代の彼は、育ちのいい、ごく典型的な良家の子どもだ った。後年、世界をひっくり返すような人間になるなどとは、想像も出来なかった。特に知的にずば抜けていたわけでもなく、まあまあの成績を取る生徒だった。父親が、これではひとかどの人間にはなれないのではないかと、本気で将来を心配したこともあったという。

彼はパブリック・スクールに学んだあと、ケンブリッジ大学の学生となり、ガラパゴス諸島の探険で有名な「ビーグル号」の航海に同行する。その後結婚して、ダウンという40軒ほどの人家と教会のある、静かで小さな村に隠遁生活をするようになる。そして、このロンドンの騒音から遠く離れた田舎に落ち着いてから、ダーウィンは生物の進化に関する執筆を始めるのだが、不思議なことに、彼は静かで、当時の産業革命からまったく切り離された生活をしながらも、けっしてその時代の精神から遠ざかることなく、むしろ時代の精神を象徴するような理論を創り上げるのである。

この外にも、ダーウィンに関して不思議な点がいくつかある。生存競争という理論を作り上げたダーウィン自身、実は生来病弱で、いろいろな持病に悩まされ続け、日々の生活も満足に送れないような人間だった。

彼は30歳になったときから死ぬまでの約40年間、 一日として普通の健康人のような生活を味わったこともなく、その一生は疲労と病苦との長い闘いであった。生まれつき病弱な体についてダーウィンは、「強者が勝つという結論を受け入れるのは、私自身まったくつらいことだ」と述べている。吐気、目まい、動悸、だるさなどは、ダーウィンの日常生活の一部となっていた。「友人たちは、私のことをヒポコンデリー(憂鬱症)だと思っている」と彼は言っている。この問題は、伝記作家だけではなく、心理学者にとってもひじょうに魅力のあるテーマである。ダーウィンの精神状態や健康状態については、時間が経てばもっといろいろな事実が判明することだろうが、ダーウィン自らが言っているように、その生まれながらの腺病質は、彼の考え方や思索に、多大の影響を与えたことは確かである。また、これも運命の皮肉と言えるだろうが、自然界での生存競争という理論を打ち立てた彼は、生存競争などせずとも、生活は充分保証されていた。

彼は生涯、生計を立てるために働くことは一度もなかった。 父親の残した遺産で、安楽に暮らすことができたのである。ダーウィンは、生活のための労働をしないことに後ろめたさを感じており、それができない自分は不適応者だと、強い劣等感を持っていたと言われている。自力で生計を立てるという考え方自体、ダーウィンにとっては想像もできないくらい恐ろしいことだった。

自分の病弱な体質を受け継いだダーウィン家 の子どもたちにも、そういう力はないものと思っていた。彼の弟のエラスムスも、「わが不幸なる家族は、皆病弱で仕事のできる者は一人としていない」と述べている。

このような人物が、自然淘汰、適者生存という産業文明社会を組織化する宇宙論を描いた。病弱のため、社会から離れて、いつ死ぬかわからない生活を送っていた人間が、である。だが、ダーウィンは自分に欠陥があったからこそ、これらの概念を作り上げたとも言える。というのも、人間の宇宙論というものは、その最も強い潜在願望、期待や切望の現れだとも受け取れるからである。

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