見出し画像

失われた50年 その3

1993年以降、税引き後賃金は横ばい状態

ラビ・バトラ「JAPAN 繁栄への回帰」1996年3月6日 初版発行/総合法令出版
👇
プラウト的政策の時代には、税引き後の実質賃金指数は1955年に21.1だ ったものが、1973年には59.5へと上昇している。これをみても分かるように当時の経済成長は例外的な強さを示していた。

この時代の税引き後の実質賃金は18年で182%も の上昇分が作り出された。 一方、国全体の生産性は、0.52から2.04へとなっていて292% の上昇分が生まれたことになる。

これが生産性上昇分であり、どこかに還元されていったはずであ る。そこで、 この生産性の上昇分の全体量を100とする)182÷292=0.62となるので (生産性上昇分の全体量の)62%分が税引き後の実質賃金の上昇分に当てられたことになる。言葉を換えていえば、生産性上昇分のうち62%分が労働者 に還元されたと いうことである。

租税負担率をみてみると、指数は20から25となっているので、25%の上昇分しか生んでいない。ということは生産性上昇分の(全体量100のうち)25%分が政府に当てられ、先程の労働者に還元された分の62%分を差し引いた残りの13%分が資本と不動産に投入されたことになる。

所得税の課税はかなり累進的に行われたので、このことは政府が資本家など に偏りがちな高額の所得からかなり税金という形で持ってい ったことを意味する。

プラウト的政策の時代に、所得の格差が小さくなったのには二つの理由があ った。ひとつは大企業と中小企業の賃金格差が狭まったこと。もうひとつは、1960年代後半以降の政府の社会福祉への支出増があったためである。

さて、第二次成長期では生産性は76%もの上昇分があったのに、税引き後の実質賃金はほとんど横ばいのままだった。賃金指数は1985年までわずかに下がった後、1992年までにゆっくりとだが上昇してきた。 この賃金の停滞によって賃金格差が広がり、結果的に不平等格差を生んできた。累進課税制度 の抑制の下にあってもその格差は広がっていったのである 。

前に表3を使って述べたように、 この伝統的な経済政策の時代である第二次成長期では政府が生産性の上昇分のうち約半分を手に入れ、残りが資本など の分野に流れていったことになる。

特に1975年 から1985年の間、税引き後の実質賃金が下降していったときには、企業の利益は急増していった。それに加え、税制によって高い減価償却費が認められたため、実際に報告されている利益よりも内部留保資金としての伸びはもっとあったはずである。

企業同士の吸収合併は1960年の半ばころから起きはじめていたが、1970年代に入るとさらに頻繁に行われるようになる。その結果1950年代から1960年代にかけて減ってきた産業独占の割合がぐんと強まっていくことになった。そして各産業における独占率はアメリカのレベルにまでゆっくりと近づいていったのである。

ここでいう独占率とは、上位三社で支配されるその産業市場の占有率を指すが、1970年代に多くの産業においてこの独占率は増加し、市場はハイレベルの競争から大企業による寡占状態 へと移行していった。

しかしその一方で、このような変化は企業間の競争力には深刻な影響を与えなかった。 つまり、独占がもたらす弊害が起きなかったのである。

なぜならば、組合の力がある程度まで弱まり、従来ならば組合が能力に合わせて勝ち取っていた賃金獲得ができなくなってきていたからである。日本の企業はすでに国内ではなく海外との競争に入っていたことから、組合は価格の低下とそれに伴う賃金の低下には抵抗できなかった。このようにして労働組合は弱まっていったのである。

これが、生産性が上昇したにもかかわらず税引き後の実質賃金が下落して いった主な理由である。当然ながら企業内における民主主義経済もすたれていった。

ここまでみてくれば、私たちは「家に持って帰れる」給料を問題にする限り、日本の経済は1975年以降停滞していると結論付けることができるだろう。税引き後の実質賃金が生活水準を計る最適な基準であるならば、

日本はその1975年以降停滞してきているのである。現在の日本は、雇用減退と実質所得の減少という深刻な危機に直面している。そしてこの危機の理由は、1970年代に起こった変化によって説明できる。その変化のうちのいくつかは、たとえば石油ショックなど政府がコントロールできない要因によるものであったが、他の多くは政策自体が間違っていたといえる。


常用労働者1人平均月間現金給与額 1947年~2022年 年平均
出典(独立行政法人労働政策研究・研修機構)


出典:週プレNEWS


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?