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1億総下層中産階級 その7

E.フロム「自由からの逃走」昭和26年12月30日 初版/昭和40年12月15日 27版(新版)/昭和62年10月20日 94版/東京創元社
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これまで我々は、近代社会において、資本をもち、その利潤を新しい投資に回すことのできる人間について論じてきた。彼らは大資本家であろうと、小資本家であろうと、その生活は経済的機能の遂行、資本の蓄積ということに棒げられた。

しかし資本をもたず、労働力を売ってその生活を稼がなければならない人間は、 一体どうだったのだろうか。彼らの経済的地位がもたらした心理的影響は、資本家の場合とそれほど異なってはいなかった。

まず第一に、雇われるということは、市場の法則、景気不景気、また雇主の握る技術的改良の如何に左右されることを意味した。彼らは雇主に直接操られ、雇主は彼らにとって、服従しなければならない優れた力の代表者となった。 このことはとくに十九世紀以前の、また十九世紀を通じての、労働者の地位について言うことができる。それ以後は労働組合運動が労働者にも自らの力を与え、労働者が単に操縦の対象となるような状態を変えつつある。

しかし労働者は、雇主に、直接的にまた人間的に、依存していたというほかに、社会全体と同じように、彼にもまた、資本家の特徴とされた禁欲精神と、人間を超えた目的に服従する精神とが沁み込んでいた。これは別に驚くべきことではない。

どんな社会にあっても、その文化全体の精神は、その社会のもっとも強力な支配階級の精神によって決定される。

その理由は、強力な支配階級が教育制度、学校、教会、新聞、劇場を支配する力をもち、それによって自分の思想を、すべての人間に与える力をもつからである。さらにまた、これらの支配階級は、非常に多くの特権をもっており、下層階級はたんに彼らの価値を受け入れたり、真似たりしようとするだけでなく、彼らと心理的にも合一しようとする傾向をもっているからである。

以上我々が主張したことは、資本主義的生産様式が人間を超人間的な経済的目的のための道具とし、プロテスタンティズムによってすでに心理的に準備されていた、禁欲主義と個人の無意味の精神とを増大させたということである。

しかしこの主張は近代人が犠牲的態度や禁欲主義によってではなく、極端な利己主義と自利の追求によって動かされているように思われる事実と矛盾する。客観的には自分以外の目的に奉仕する召使いとなりながら、しかも主観的には、自分の利益によって動いていると信じている事実を、いったい我々はどのようにして解決できるであろうか。

プロテスタンティズムの精神と、近代的な利己主義の信条とをどのように和解させることができるであろうか。プロテスタンティズムは非利己的なことを強調するのに対し、近代の利己主義はマキャベリの言葉を借りれば、利己主義こそ人間行動の最も強力な原動力であり、個人的利益の追求はどんな道徳的考慮よりも力強く、人間は自分の父の死を見るよりも、財産を失うことの方が耐えられないと主張している。

この矛盾は、たんに非利己的であることを強調することが、奥底に横たわっている利己主義を隠すためのイデオロギーに過ぎないと考えることによって、説明できるであろうか。もちろん、それもある程度まで正しいが、これが十分な解答であるとは思われない。答がどのような方向にあるかを示すためには、利己心という心理的に複雑な問題を考えなければならない。

ルッターやカルヴァン、またカントやフロイトの思想の根底にある仮定は利己心と自愛とは同じものであるという考えである。すなわち他人を愛するのは徳であり、自己を愛するのは罪であり、さらに他人に対する愛と自己に対する愛とは互いに相容れないという考えである。

これは、愛の性質について、理論的に誤った考えである。愛は、元々ある特定な対象によって「惹きおこされる」ものではない。それは人間のなかに潜むもやもやしたもので、「対象」はただそれを、現実化するに過ぎない。憎悪は破壊を求める激しい欲望であり、愛はある「対象」を肯定しようとする情熱的な欲求である。

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