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嗜癖する社会

A.W.シェフ「嗜癖する社会」誠信書房 1993年2月20日 第一刷発行/1997年 第六刷発行 はじめに より

私たちの社会は驚異的な速度で堕落しています。巨額の汚職や財政破綻などのニュースが私たちの日常生活の一部になっています。テレビのニュースや新聞を通じて幼児ポ ルノの組織に子供 が誘拐されるのを恐れたり、かかり つけの医者が患者を誘惑した話を耳にしたりします。酸性雨と公害によって地球は破壊され、核戦争による破滅が今にも起 こりそうです。飢餓と戦争は地上に蔓延しています。

この社会において、私たちは何らの行動も起こさず不安を募らせるばかり、抗うつ剤の売上げ高は増え続けるばかりでしょう。

今や無気力で憂うつであることが、適応的であるとさえ言えるようになってしまいました。自らを変え、自らを救う道を見出そうともせず、私たちはより保守的に自己満足的に、現状を維持することに躍起になっています。

こうした問題に関心に寄せるごく一握りの人びとは、世間からは頑として受け入れられません。選挙に立候補しても当選できません。危機感を大衆に訴えても、無視され、信用されません。

ある人びとは、書物を著すことによってこれらの諸問題の解決の道を探り、戦おうとしています。最近ではさまざまな研究分野から、多くの告発がなされています。『なぜ民主主義は滅びたのか』『デカルトからベイトソンヘーー世界の再魔術化』『麦わら革命』『ターニング・ポイント』『エント ロピー』『メガトレンド』『失われた緑のパラダイス』などは、それらの中のほんの一部です。

心理学的な手法を用いた体重コントロールのセルフケアといった類のハウ・ツーものの本が、かつてないほど売れています。そういったものは私たちに答えを与えようとしてはいますが、どれ一つとして本当の問題を指摘していません。

なぜそうなるのかの理由として、次の二点があげられると思います。第 一に、すべてではないにしても、そのほとんどは分析の段階で止ま っていて、そこから先に進もうとしていません。元になっているのは、排他的な「左脳」による合理的、論理的な思考です。モーリス・バーマンの 『デカルトからベイトソンヘーー世界の再魔術化』から引用すれば、こうした書物は非協調的で、経験主義と論理的実証主義に基づいた科学的なアプローチを取っています。このアプローチはきわめて限定されており、非常に狭い視野から世界を眺めているのです。

第二に、すべてではないにしても、そのほとんどは、問題のほんの一部分しか扱っていません。問題の各部分をつなぎ合わせ、問題の全貌に取り組んだ研究はまだありません。実際のところ、問題の全貌を把握し、少なくともそれが何かを知った上で記述している人は、一人もいないのではないでしょうか。

この社会についての私たちの認識は、目の不自由な人が象について知っていることと大差ありません。

古 い諺が示す通り、象は耳や尻尾や胴体を超えたものであるばかりか、一匹の動物であることさえも超えたものです。それは コンテクスト(文脈)の中のプロセス(過程)でもあるのです。象は生まれ、生き、やがて死ぬ。これがプロセスです。

私たちにとっての象のコンテクストーー私たちの社会――とは、私たちが生きているのが嗜癖システムだという事実です。個々のアルコホリックやその他の嗜癖者が示すプロセスや特徴を、この社会はすべて備えています。なにも社会を糾弾しようとして、このように言っているのではありません。それはちょうど、アルコホリックに介入したり援助したりするのがアルコホリックを非難しているのではないのと同じことです。

実際、嗜癖者の治療に関わっている私たちは、大事なのは彼らが否認にかかずらうことなく病気にコンフロント(直面)することだということを知っています。それが、嗜癖者が回復するための唯一の道なのです。嗜癖者に言うのと同じように、今私たちは、この社会がひとつの病気を持っていると言わなければなりません。病気になっていることを認めて、はじめて回復への道も開けてくるでしょう。

社会が嗜癖という病気に罹っているという認識こそが、今日直面している諸問題に対する他の解釈や対処法が見逃していたものです。ほとんどのものは、特定の関心や分野にだけ焦点を当てています。それは私たちの断片的な社会においてはごくあたり前のことですが、 視野の狭さは嗜癖者の特徴でもあるのです。

さらに言えば、システムを観察する人びとが、システムに近過ぎ、巻きこまれ過ぎているために、それがはっきり見えなくなっているという こともあるのです。彼らの多くは、自分自身が嗜癖者として振る舞い、彼ら自身が、嗜癖的な機能不全家族の出身です。時には彼らはシステムの外側に逃れて「観察者」の立場を守ろうとしますが、それでは情報の届かない部外者になるだけです。

嗜癖システムの何たるかを把握するためには、嗜癖者になることなく、嗜癖 システムの中にいなければならな いのです。言い換えれば、嗜癖システムを浴びたことによって生じた障害から回復することによってはじめて、人は、 このシステムの観察者になれるのです。 この基準に適う人びとは存在します。しかし、嗜癖者のための主な治療役は、ずっとアノ ニマス(無名性)を維持してきました。アルコホリック・アノニマス、アラノン 、オーバー・イーターズ・アノニマス、ギャンブラーズ・アノニマスなどです。その結果、私たちのシステムに対してもっとも正確な見解を持つ人びとは、常にその無名性の下に隠されて来たのです。

実質的な参加なくしては、ほんとうの理解は不可能です。女性運動と薬物依存の分野の活動を通して私が学んだのは、個人的な経験に基づいた情報こそもっとも信頼できる、ということでした。客観性は神話にぎません。もっとも信頼できる人とは、正直にこう語る人のことなのです。「あなたがどんな気持ちでいるかわかりますよ。私もかつてそうだったのです」と。

個人的な見解を理論にまでつなげれば、そこに統合がもたらされるでしょう。 この本は、概念と経験の統合を目指すものです。

幸いなことに、個々の嗜癖者の場合と同じように、嗜癖システムも回復することができます。しかしそれに取り組む前に、まずこの病気に名前を与え、受け入れなければなりません。私たちの社会が病気に罹っており、回復させることができることを認めねばなりません。

回復に際して必要な仕事にも取り組まねばなりません。それは、リビング・プロセス(生存過程)システムと名づけた新しいシステムヘ移行していくまでの、長い長い道のりなのです。

嗜癖者が回復に向かうようになるためには「底つき」の体験が必要です。私たちの社会もその時期にさしかかっていると思います。だから今、私はこの本を書くのです。


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