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1億総下層中産階級 その5

E.フロム「自由からの逃走」昭和26年12月30日 初版/昭和40年12月15日 27版(新版)/昭和62年10月20日 94版/東京創元社
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しかしこれは、資本主義が発展する自由の過程に及ぼした一つの結果(自由への道のりの通過点)であり、それは同時に個人を、増々孤独な孤立したものにし、彼に無意味と無力の感情を与えたのである。

ここで最初に取り上げるべき要素は、資本主義経済の一般的特質の一つとしての、個人主義的活動の原理である。すべての人間が、整然とした明らかな社会組織のなかで、一定の固定した位置をもっていた中世の封建制度とは反対に、資本主義経済のもとでは、個人は完全に自分自身の足で立つことにな った。彼が何をするか、またそれをどのようにするか、成功するか失敗するかということは、まったく彼自身の事柄となった。この原理が個性化の過程を促進させたことは明らかで、近代文化の光栄ある側面の、重要な項目の一つとして常に取り上げられる。

しかし 「~からの自由」が増々進展していくとき、この原理は個人間のすべての紐帯を断ちきり、その結果、個人は同僚から孤立し分離したものとなった。この発展は宗教改革の教えによって準備されたものである。

カトリック教会では、個人の神に対する関係は教会の一員であるということに基礎を置いていた。教会は個人と神とを結ぶ媒介であり、一方に人間の個性を制限しながら、他方、個人を集団の構成部分として、神に立ち向 わせた。ところがプロテスタンティズ ムは個人を、唯ひとり神に向わせたのである。ルッターの意味に於ける信仰は、まったく主観的な経験であり、またカルヴァンに於ける救済の確信も、これと同じ主観的な性格のものであった。

個人は神の前にひとりで立たされると、圧倒感に襲われ、完全な服従によって救済を求めざるを得なくなった。心理学的には、この精神的個人主義は経済的個人主義とそれほど異なったものではない。どちらの場合にも、個人は完全に孤独であって、孤立した状態で、神とか競争者とか、また非人間的な経済力とかいう、優越した力に立ち向かうのである。神に対する個人主義的な関係は、人間の世俗的活動に於ける個人主義的な性格に対して、心理的準備となった。

この経済組織の個人主義的性格は、争う余地のない事実であるが、この経済的個人主義が影響して人間の孤独を増大させたということは、疑わしいと思われるかもわからない。

我々が今検討しようと思っているところは、資本主義についてのもっとも広く行なわれている通念とは矛盾している。

これらの通念が前提とするのは、近代社会に於いては人間があらゆる活動の中心と目的とになったということ、人間のすることはすべて自分自身でするのであり、利己心や自己中心主義という原理が、人間活動のもっとも強力な動機であるということなどである。本章の冒頭で述べたことから、我々もまた、 今言ったことをある程度正しいと考える。確かに人間は、この四百年間に、自分自身で自分自身の目的のために多くのことをしてきた。

■現代人は、自分というものが労働者とか工場主とかいう「立場」に置き換えられていることに気が付いていない。

しかも(しかし)彼にとって自分自身の目的と思われた多くのことが、実は自分のものではなかったのである。 もし「自分」ということが、「労働者」とか「工場主」とかではなく、感情的・知性的・感覚的なすべての能力を持った具体的な人間を意味するならば、資本主義は個人を肯定したが、それと同時に、自己否定と禁欲主義をも導いた。この自己否定と禁欲主義は直接、プロテスタントの精神につらなっている。

この問題を説明するためには、まず第一に、すでに前章で述べたことを取り上げなければならない。中世的組織では、資本は人間の召使いであったが、近代的組織では資本が人間の主人となった。

中世社会では、経済的活動は目的に対する手段であった。その目的は、人生そのものであった。

或は――カトリック教会が説明したように―― 人間の精神的な救済であった。経済的活動は必要であり、富でさえも神の目的に奉仕することができる。

しかし、あらゆる外的活動はそれが人生の目的を促進する限りに於いてのみ、意味と尊さとをもっている。それ自身のための経済活動や、それ自身のための獲得欲は、中世の思想家にとっては非合理的なものに思われた。ちょうどその反対が、近代思想にとって非合理的であるように。

資本主義に於いては、経済的活動や成功や物質的獲得が、それ自身目的となる。経済的組織の発展に寄与することや、資本を蓄積することを、自分の幸福や救済という目的のためにではなく、目的それ自身として行うことが人間の運命となる。人間は巨大な経済的機械の歯車となった―― そして資本を多く持った人間は重要な歯車であり、資本を持っていない人間は、無意味な歯車である―― しかし、その歯車は常に自分の外にある目的に奉仕するものである。

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