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貿易は国を亡ぼす(した)

ラビ・バトラ「貿易は国を亡ぼす」1993年12月20日 初版第一刷発行/光文社 より
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序――岐路に立つアメリカ

第二次世界大戦以来、 エコノミストとアメリカ政府は自由貿易の恩恵を声高にとなえつづけてきた。共和党と民主党とを問わず、さまざまな政権が、外国との貿易における自由放任政策を擁護してきた。

ゆっくりと、だが着実に、貿易障壁の大部分が取り払われ、

今日のアメリカの国際貿易への依存度の高さは、とりわけ輸入へののめりこみの深さは、歴史に例を見ない。

いまでは、自由貿易という考えは、それ自体が神話となった。自由放任に賛成することは、進歩と繁栄と平和に賛成することである。

それに反対すれば、エコノミストとウォール・ストリートと政治学者と多くの新聞の怒りを買う

1950年代のベビーブーム世代は自由貿易の福音を聞いて育った。事実、その思想は世界中で経済の神学として信奉されている

人工衛星と多国籍企業によってたがいに結ばれてますますグローバルになる経済では、もちろん国際貿易にいま浴びているような注目を集めるだけのことがある。われわれの生活全体がそれにかかわりをもっている。今日のアメリカ人は海外からもたらされる数えきれない高級ブランドのなかで、ソニー、トヨタ、BMW、アルマーニなどを愛用する。同じように、外国人はボーイングやキャデラックに乗って旅行する。それらはアメリカから輸出された製品である。飢饉や世界的な飢餓状態が、大規模なアメリカ農業によって回避されることもしばしばだ。こうして国際貿易は、戦後のアメリカの自由貿易政策のおかげで、今日、アメリカと世界経済にきわめて大きな役割をはたしている。

1992年8月にカナダとメキシコとアメリカが調印し、大いに喧伝された北米自由貿易条約(NAFTA)は、自由放任政策の表明として、まさに最も新しいものである。NAFTAは調印国のあいだで貿易と投資の障害をなくす試みである。まだ三国の政府に批准されてはいないが、その背後には圧倒的な高まりを示す政治的な支援がある。

自由貿易の反対は保護主義である。つまり、国内の産業を関税や数量割当てのようなさまざまな障壁によって、外国との競争から守らなければならないというのである。 エコノミストたちは長きにわたり、論理と常識に欠ける行きづまった思想として、それをしりぞけてきた。保護主義者は国民の広範な利益を危険にさらし、ごく少数の既得権益を守るチャンピオンだとして非難されてきたのである。保護主義が独占と組織労働者の怠けぐせを助長すると示唆し、それは孤立主義にほかならず、道徳にもとることだと厳しく非難する者さえいる。

本書は、その自由貿易の福音に、あえて戦いを挑むものである。私は前の二つの著書『資本主義と共産主義の没落』および『1990年の大恐慌』で試みたように、再度、経済の通説に挑戦している。1978年に発行した『没落』で、私は資本主義と共産主義が2000年までに崩壊すると予測した。1985年発行 の『大恐慌』で、1990年の景気後退というかたちをとってはじまる世界的な経済危機を予言した。一見して実現しそうにない私の予測の二つが、人びとの目の前でそのとおりに進展した。私を声高にののしる批判者たちが驚いたことに、ソ連の共産主義が終わり、アメリカはいまや激動の1930年代以来最も長い景気後退のさなかにある。

(中略)後知恵になるが、『没落』のなかの私の言葉をないがしろにしなか ったら、アメリカは共産主義の崩壊を招こうとして、億とか兆という単位の金を防衛力増強のために湯水のように浪費する必要はなかったはずだ。ソヴィエト帝国は内部的な矛盾にさいなまれて、とにかくまっしぐらに絶滅へと向かったのである。過去二世紀にわたって古いエコノミストたちが後生大事に守ってきた考えに反対するこのたびの仕事も、前二作と同じ精神で読者に提示される。私はまたしても、地球ばかりでなく、わが国が生き残るにも決定的に重要となる知識を得た。このたび、私は自由貿易という正統的な考えに一矢を報いることにしよう。

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