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失われた50年 その9

ラビ・バトラ「JAPAN 繁栄への回帰」1996年3月6日 初版発行/総合法令出版 より

そして迎えた狂乱の時代

終戦以来、日本における不動産投機は、銀行・企業・個人のいずれにとっても収益の高いものとなった。土地の絶対量の少ない日本経済において、銀行は不動産を担保にしての貸出しにはつねに熱心であった。

1974年、こうした不動産インフレを防ぐために、政府は不動産の売却や名義書き換えに対し、大きな資本利得税を課すことになる。この資本利得税は投機的な動きを防ぐために設けられ、1975年に不動産価格が一旦下落したので 一年間だけ効果はあった。しかし1976年には再び上昇に向かうことになったのである。

この資本利得税は、不動産の売却を抑えたので目論見どおりの結果を生んだ。しかし、土地を売る者が少なければ土地価格を長い期間抑えておくことはできない。またこの税制は、株式投資を助長してしまった。

不動産の所有者は、それを売却する代わりに、その不動産を担保にして資金をどんどん調達し、その資金を株式投資につぎ込んでいったのである。このような投機を好み暴利をむさぼる人々から、資本利得税は不動産市場での楽しみを奪ってしまった。そして彼等はその触手を急速に発展していた株式市場に伸ばしていったのである。

日経平均株価は1975年の末には4千358円であ った。しかし1980年末 には7千116円まで上昇、そして 1979年の石油価格の急騰は株式熱を 一向に冷やすこともなく、1985年末には1万3113円となっていく。

10年で三倍になったということである。こうして日本には株式市場で大儲けをする人が出てくることになったのである。

この時期は簡単に金儲けができる時代であった。たった一晩で億万長者が生まれた。もう欲望にも野心にも制限などなくなってしまったのである。

「どうしたって価格は落ちはしない。土地だけでなく株価だって、″永遠 に右肩上がり″ で上昇しつづけるのだ」人々はそう信じていた。

話はこれでも終わらなかった。アメリカはしだいに自国の貿易赤字と日本の貿易黒字に対して不満を持ちはじめるようになった。こうしてプラザ合意を迎えたのだが、そのプラザ合意以降、未曾有の超円高時代を迎えることにな ったのである。

この円高の打撃を和らげるためにアメリカからの圧力で日銀は公定歩合を引き下げ、市場に円資金を供給して行くことになった。こうして1986年、規制の撤廃により銀行の資金調達コストが増大しているのにもかかわらず金利は低下していくのである。

銀行は、このような困難な状況でも喜んで貸出しに応じた。なぜなら、もう一方の株式市場における投機によって、実質的には「コスト=ゼロ」の資金を集めることができるようになっていたからである。貸し出しコストはたしかに上がったが、銀行には無尽蔵の資金供給源があったのである。すなわちそれが「右肩上がり神話に沸く」東京株式市場であったのである。

経営コストの上昇は、なぜ銀行が株式市場への傾斜を深めていったかの理由でもある。コストが増大すればするほど、その埋め合わせをするために銀行はより高い収益を株式市場に求めるようになっていった。そして右肩上がりの株式市場で収益を上げることは非常に容易だったのである。

このように金利の自由化は、株式市場のバブルを膨らませた一因になっていたのである。それはまさに1920年代の再現であった。

株式市場で儲けた人達はその利益を不動産にもつぎ込んでいった。こうして不動産価格は株式市場の高騰と共に上昇していくのである。不動産所有者は、高い価格の不動産を担保に借り入れを増やし、儲けた資金をまた株式につぎ込んでいった。まさに株式と不動産は持ちつ持たれつの関係となっていったのである。これこそが永久に止まりそうにないバブルの拡大であった。その勢いは天井知らずだったのである。

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