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1億総下層中産階級 その3

E.フロム「自由からの逃走」昭和26年12月30日 初版/昭和40年12月15日 27版(新版)/昭和62年10月20日 94版/東京創元社 より

資本主義社会のより高度な発達が、宗教改革時代に兆し始めた変化と同じ方向へと、パースナリティに影響した。

プロテスタンティズムの教義は、近代的産業組織のもとで果すべき役割に対する、心理的な準備を与えた。この組織、この習慣、またそこから生まれるこの精神は、生活の隅々に行き渡り、パースナリティ全体を形成し、前章で検討したような矛盾を更に強めたのである。即ち近代的産業組織は個人を発展させたが―― 彼を一層無力なものにした。それは自由を増大させたが、―― しかし新しい依存を生み出した。我々は人間の性格構造全体に及ぼした資本主義の影響を述べようとは思わない。というのは、我々はただ一般的問題の一面だけに集中したいからである。即ち自由の発達過程の弁証法的性格 である。我々の目標は、近代社会の機構が同時に二つの仕方で人間に影響を与えていることを示すことである。

その二つの仕方というのは、人間はより 一層独立的、自律的、批判的になったことと、より一層孤立した、孤独な、恐怖に満ちたものになったことである。自由の問題全体を理解することができるかどうかは、この過程の両面を見て、一方を追求しているとき他方の痕跡を見失わないかどうかの、まさにその能力にかかっている。

これはなかなか困難なことである。なぜならば、我々は非弁証法的な思考に慣れていて、二つの矛盾する傾向が、同時に一つの原因から生まれてくることに疑いをもちたがるからである。さらに自由の否定的な側面、即ち自由が人間にもたらす重荷については、とくに自由の主張で頭がいっぱいになっている人にとっては、理解し難いからである。

近代史における自由のための戦いでは、古い権威や束縛と戦うことに注意が集中されたので、これらの伝統的な束縛が除かれれば除かれるほど、人間はより一層多くの自由を獲得すると感じたのは当然である。 しかし人間は自由の古い敵から自らを解放したが、異なった性質をもった新しい敵が台頭してきたことにまったく気がついていない。

その新しい敵というのは、本質的には外的な束縛ではなくて、パースナリティの自由を十分に実現することを妨げる、内面的な要素である。

たとえば、信仰の自由が自由の最後の勝利であると信ずるとする。 しかしそれは、人間が自らの良心のままに信仰を求めることを許さなかった教会や国家の権力に対する勝利ではあるが、

一方近代人は、自然科学の方法によって証明されないものを信ずるという内面的な能力を、著しく失ったことは、十分に理解されていない。或は、もう一つの例を上げるとすれば、言論の自由が自由の勝利の、最後の段階であると感ずる、というようなことである。

言論の自由は確かに古い束縛に対する戦いにおいて、重要な勝利ではあるが、近代人は、「自分」が考え、話している大部分が、他の誰もが考え話しているような状態にあることを、忘れている。また近代人は独創的に考える力、――すなわち自分自身で考える能力を獲得していないということを、忘れている。独創的な思考こそ、いかなるものも彼の思想の発表に干渉することができないという彼の主張に、初めて意味を与えるのである。さらに、我々は、人間が彼に何を為すべきで、何を為すべきでないかを教えるような、外的権威から解放されて、自由に行動できるようにな ったことを誇りに思っている。しかし、我々は世論とか「常識」など、匿名の権威というものの役割を見落している。

我々は他人の期待に一致するように、深い注意を払っており、その期待に外れることを非常に恐れているので、世間や常識の力はきわめて強力となるのである。言い換えれば、我々は外にある力から益々自由になることに有頂天になり、内にある束縛や恐怖の事実に目を塞いでいる。

し かもこの内的束縛や強制や恐怖は、自由がその伝統的な敵に対して勝ち取った勝利の意味を、覆すものである。

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