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1億総下層中産階級 その6

E.フロム「自由からの逃走」昭和26年12月30日 初版/昭和40年12月15日 27版(新版)/昭和62年10月20日 94版/東京創元社
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人間を超えた目的に、たやすく自己を服従させようとするこの傾向は、実際には、プロテスタンティズムによって準備された。もちろん、 ルッターやカルヴァンの精神にとっては、経済的活動のこのような優越性を認めることほど縁遠いものはなかったけれども。 しかし、彼らはその神学的な教えに於いて、人間の精神的な支柱と、人間の尊厳と誇りとの感情とを破壊することによって、またあらゆる活動というものは、人間の外部にある目的を、より一層促進させるためのものでなければならないと説くことによって、この傾向を発達させる基盤を作ったのである。

前章で述べたように、ルッターの教えの主要な点の一つは、人間の性質が邪悪であること、人間の意志や努力が無駄であることを強調したところにある。 カルヴァンもまた、同じように人間の罪悪性を強調し、人間は徹底的 にその自尊心を否定しなければならないこと、さらに、人間生活はひたすら神の栄光を目指すものであって、決して自分自身の栄光を目指すものではないということが、彼の体系全体の中心思想であった。こうして、 ルッターとカルヴァンは、近代社会で人間がとらなければならない役割への、心理的な準備を与えたのである。

すなわち、自分自身の存在が無意味であると感ずることと、自分の目的ではない目的のために、ひたすら自己の生活を従属させようと用意することである。ひとたび人間が、正義も愛ももたない神の栄光のために、ただその手段になろうという心構えを作れば、それは経済的な機械に―― 或は、ときには一人の「指導者」に――対する召使いの役割を受け入れるように、十分準備することになるのである。

個人が経済的目的に手段として服従することは、資本の蓄積を経済的活動の目的とする資本主義的生産様式の特殊性にもとづいている。人間は利益を求 めて働く。

しかし獲得した利益は消費するためのものではなく、新しい資本として投資するためのものである。そしてこの増大した資本は更に投資されて新しい利潤を生み出し、このような過程が引続き繰り返される。

もちろん奢修や「すばらしい浪費」のために金をばらまく資本家は常に存在したが、

資本主義の古典的な代表者たちは、働くことを楽しみ、消費することを楽しんだのではなかった。

資本を消費に使うのではなく、資本を蓄積するというこの原理は、近代的産業組織の壮大な業績が打ち建てられるためには、なくてはならない前提である。

もし人間が仕事に対して禁欲的な態度をもっておらず、また手に入れた利潤を経済的組織の生産力の発達に投資しようとする欲求をもっていなかったならば、自然の征服はこれほどまでに進歩しなかったであろう。物質的欲望を満たすための絶え間ない闘争が、終りを告げるような未来を心に描くことが できるようになったのも、社会の生産力がこのように増大して初めて可能だったのである。

しかし、資本の蓄積のために働くという原理は、客観的には人類の進歩に対して大きな価値をもっているが、主観的には、人間が人間を超えた目的のために働き、人間が作ったその機械の召使となり、ひいては個人の無意味と無力の感情を生み出すこととなった。

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