見出し画像

カルヴァン主義は換骨奪胎して通俗哲学になった-2

新島 襄(にいじま じょう、1843年2月12日-1890年1月23日)は、キリスト教徒の教育者である。

江戸時代の1864年(元治元年)に密出国してアメリカ合衆国に渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けてフィリップス・アカデミー(高校)、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校で学ぶ。そして、改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となった。日本に帰った後の1875年(明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府にて同志社英学校(後の同志社大学)を設立した。 明治8年(1875年)11月29日、かねてより親交の深かった公家華族の高松保実より屋敷(高松家別邸)の約半部を借り受けて校舎を確保し、府知事・槇村正直、府顧問・山本覚馬の賛同を得て旧薩摩屋敷5800坪を譲り受け官許同志社英学校を開校し初代社長に就任する。開校時の教員は新島とジェローム・デイヴィスの2人、生徒は元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎ら8人であった。また、この時の縁で翌明治9年(1876年)1月3日、山本覚馬の妹・八重と結婚する。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ならぬことは、ならぬものです。

司馬遼太郎「太郎の国の物語」4、自助論の世界 より

■信じられない寛容さ
幕末にですね、上海で翻訳された漢訳の聖書を読んだ青年が・・・関東地方に安中というところがあります、ちっちゃい町ですよ・・・そこのお侍さんの子で、新島襄・・・後で同志社大学を起こす人ですね・・・新島襄がですね、これだと思って脱藩して、函館に行きました、函館でアメリカ人の船長に会いまして「どうしてもアメリカへ、密出国したい。」

(ナレーション)彼に親切だったテイラー船長が、船主のハーディに報告、新島はハーディ家に引き取られることになる。ハーディ氏とその妻スーザンは信じられない寛容さで、この東洋から来た密出国者を受け入れ、学費のすべてを負担し、名門校フリップス高校へ入学させ、考えられるかぎりの高い教育を受けさせたのである。そして新島はその期待にこたえた。

フリップス高校からアーモスト大学へ進学、寮生活を送り、さらにハーディ夫妻の援助でアンドーバー神学校へ進んで、聖職者の道を歩む。その間に故国日本では明治新政府が誕生、青写真を持たない新政府は、とりあえず欧米国家を見学してこようと、岩倉具視を団長とする視察団を結成、出発の準備をしていた。アメリカで使節団受け入れのため奔走していたのが、のちの文部大臣、森有礼で、彼は新島を正式の政府留学生にして、使節団の案内をさせようと思いついた。

■キリシタンは怖くない
禁制の耶蘇教徒を正式の留学生にするというのは、矛盾していると言えば矛盾しているんですけど、そういうことは言ってられなくて・・・岩倉使節団が来ますから・・・彼に案内を任せようと思ったんでしょうな・・・木戸孝允が教育関係を視察するということで、新島君、木戸孝允付だということで2か月、木戸孝允と明治4年に行を共にするわけです。

木戸孝允はすっかり惚れるわけです。キリシタン嫌いで、初期のキリシタン弾圧の、まあ、張本人の木戸孝允がですね、新島襄に惚れて彼の日記にですね「アメリカかぶれでもない、文明開化かぶれでもない、実に質実で立派な人間だ。自分はよき友を得た。」と書いておりますけれど・・・。

新島はですね、木戸孝允に自分の出た大学を見学させただけでなく、神学校まで見学させるわけです。そのときに案内役を務めたのが、あとで札幌農学校に来る、あの有名なクラーク博士です。木戸孝允は初めて外国に来て、それがアメリカで、そして、最も濃厚で印象的な相手が、新島襄とクラーク博士で・・・クラーク博士は非常に、きついほどのプロテスタントでした。敬虔なプロテスタントでした。

木戸孝允はすっかり・・・耶蘇教びいきになるわけじゃないんですけど・・・キリシタンは怖くないと思ったでしょうね・・・

■古き良きアメリカのちょっといい話
神学校の卒業生としてですね、聴衆にお説教をするという慣例があったらしいんです。そのお説教の場所には、熱心な信者が集まってきて、新品の神学校卒業生のいいお説教を聞くわけです。

新島は、自分の国は、この間革命を起こして新しい国になった。しかし、何をしたらいいのかわからない、どういう国を作ったらいいのかわからない、そういう状況だと・・・自分はこの日本という国に対して、キリスト教主義をもって貢献したいんだと、自分は、私のために人生を考えているのではなくて、この国のために、良きキリスト教を扶植したいんだと、それについては大学校を起こしたい、それができない限りは、自分は日本へは帰れないんだと・・・つまり、お金がないわけです。

そうしたらですね、即座に聴衆の一人が立って・・・この人はお医者さんで・・・たちどころに千ドル、当時の千ドルですから大きかったですね、新島に寄付しました。そうしたら、会場がもう我も我もといって五千ドルになりました。そうして最後に、一人の貧し気な農夫が進み出て、二ドルを寄付しました。彼にとって二ドルを出したら、もう帰りの汽車賃がないんです。彼は、それでも遥かに歩いて帰ろうと思って、なけなしの二ドルを寄付したんです。

新島は、自分を否定して否定して、否定した挙句にそれをばねにして自分を鼓舞するという性質を持っていましたから、彼の演説というのは素晴らしかったと思うんです。

■行き場を失った忠誠心
クラーク博士に触発されてクリスチャンになった・・・新渡戸稲造、内村鑑三・・・新渡戸稲造は南部藩ですね、明治維新で割を食ったところですね。南部藩なんてのは、賊軍扱いされて責任者が腹切ったり、いろいろあった大変な藩です。それから、内村鑑三は高崎藩の出だと思いますが、これも割を食ったとこで・・・とにかく、札幌農学校の秀才たちはですね、たいていは士族なんですけど、仕えるべき主と言いますか、忠誠心の対象であるお殿様を失った青年たちですね・・・溢れるばかりの忠誠心の持って行き場がない。それがイエスならイエス、神なら神というような、新しい主を得たということなのか・・・私はまあ、そういうふうに解釈しているんですけども・・・。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?