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人間の歴史は「死の克服」の歴史

ジェレミー・リフキン「エントロピーの法則2」21世紀文明の生存原理 1983年11月5日 初版第一刷発行/祥伝社
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動物は危険を感じるとパニック状態になり、死から必死で逃げ出そうとする。しかし、「自分はいつかは死ぬのだ」ということを意識する生き物は、人間だけである。アーネスト・ベッカーは、その著書『死からの逃走』の中 で、次のように述べている。「人間にしても、あらゆる動物や原始的な微生物にしても、できるだけ死を避けようとする点では変わらない。食物を摂りたい、エネルギ ーを得たいと願っている。しかし、ただ人間のみが、自分 の死の避けられぬことを意識している。

動植物は絶えず「今」という瞬間にだけ身を置いていればすむが、人間だけは未来や死のことばかり考え続けるのである」と。

このように、人間には未来を考える能力があるが、まさにそのために苦しむ。時の地平線のすみずみまで見えるから、何が起きるかわかるし、それに合わせて身を処することもできるが、先が見えれば見えるほど、自分たちの暗い運命もまた日に入る。占師のところへ行った ことのない人でも、未来のことはすべて知りたいものである。しかし、死ぬ時と場所だけは知りたくない、という気持ちは誰にでも共通したものだろう。

たまたま占師が口をすべらせ、死の訪れる時を告げたとしよう。すると、どんなにバラ色の人生を保証された人でも、もう人生が無意味に思えて、心の底から失望するのである。誰でも死は受け入れがたい。死は人生で唯一の確かなものだが、同時に最も訪れてほしくないものである。

この死にたくないという人間最大の願望と、冷厳なる現実というギャップがあるからこそ、文明や文化が生まれ、世界観が形成されたとも言える。

まず文明の初期段階にあっては、人間は優れた罠や道具を作り、多くの動物を捕えようとする。あたかも彼らの生命を奪うことで、自分たちの不死が保証されるかのように。私たちの人生の大半は、周りの生き物を捕えることと、自然を自分の中に取り込むことで占 められている。それは、ただ食物を得るためだけではない。実は死を忘れ、死を乗り越えるためなのである。だからこそ、人間の文化は最も原始的な、 日々の食糧を得るためだけの段階から、今日の段階まで発展してきたわけである。

しかし、死は避けがたい。一方、避けがたいがゆえに死にたくない。このジレンマから、他の生命を自分の中に採り入れたいという欲望、飽くことなき衝動が生まれてくる。古代の猟人以来、人類は身を潜めて待つ法、自然の動きを知る法、季節の変化と動物の動きを予期する法を学んできた。それも自然界をもっと支配したいという欲求のためだった。

どの時代も、文明というものは自然を捕えるために、ますます大きな罠を創り出し、人間を操ってきた。まさにアーネスト・ベ ッカーの言うとおり、「人は殺すことで死を超越しよう」としたのである。そして、すべての自然観の中に、この激しい焦りがにじみでている。

猟師は、獲物が無尽蔵にあることを願わずにはいられな い。だから古代の宇宙論では、自然が豊饒な姿で捉えられていた。事実、旧石器時代の猟人は、孕んでいたり、槍で突かれた動物の群れの絵を描き、新石器時代の先祖は、つねに創造性に富み、多産をもたらす女神を産み出し、シュメール人は、水神の精液を浴びて受胎した世界を想像した。神の創造した秩序により、世界は隅々まで多種多様な動物で満ちていると考えたギリシャ人やキリスト教徒にとっても、自然は豊潤なものでなくてはならなかった。

このように、人間はいつまでも、「強くて無尽蔵な自然」というイメージを捨てることができなかった。捨てれば、自分たちの飽くことなき欲望は満たされない。満たすべき自然がなくなるなどとは、とても考えられない。

自然にも終わりや、限界があるなどという考え方は、人間自身の終末とか無常観を連想させるだけであり、こんなことは最初から意識すまいというのが、長年、人間の採ってきた態度なのであった。

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