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失われた50年 その10

ラビ・バトラ「JAPAN 繁栄への回帰」1996年3月6日 初版発行/総合法令出版 より

このような状況の中でも日銀は公定歩合を低目に誘導し続けた。 これでは「火に油を注ぐ」ようなものである。低金利はただバブルを増長しただけであった。まるで1950年代の国内需要が際限なくあったときのように、企業は工場などの設備投資に資金を使っていった。GDPも急騰し、まさにバブル真っ盛りであった。

金融緩和は株式価格において世界的なバブルを引き起こしたのである。それは自著 『1990年 の大恐慌』(英題=The Great Depression of 1990 到草書房刊)で示した狂乱の時代であった。私はそのときに、1987年末から1989
年までに株式市場が崩壊することを予言したのである。

宴は終わった

1987年10月19日、市場は世界的に崩壊した。それは世界の人々にとっては青天の露震であった。しかし日本においてはそのパニックの期間はわずかな期間で終わった。六カ月の間に株価は完全に回復したのである。

日経平均株価は1985年末には1万3113円であったが、1989年末には3万8916円 になっていた。1975年から10年の間に三倍、そして1985年からたった4年の間に再び三倍となったのである。

この4年間に通貨資金供給量も52%増えたが、それらはすべて資本市場につぎ込まれたのであった。

それでも1989年の半ばには、そのバブルの饗宴がすぐに終焉することは明らかになっていた。資産価格がらせん状に上昇するのを憂慮した日銀は、公定歩合を上げはじめた。

しかし誰も深刻には考えなかった。その後また一度、公定歩合が引き上げられたが、手軽に儲けるという成功の美酒に酔っている人間には、まったく何も見えなかったのである。

1989年末、世界的に厳しい寒波が続き、石油価格を突如として引き上げた。この石油価格の高騰と上昇しつつあった金利とが、世界のバブル経済を直撃した。その結果、1990年の株式取引の初日から株価は暴落を始めたのである。驚いたことにそれでも不動産バブルはなおも続いていた。

しかし日銀が、土地不動産に対する貸し出しに対して、厳密な規制を始めた直後の1990年9月に、ついに不動産バブルも弾けた。まさにバブル経済崩壊のときであった。

アメリカン・ドリーム幻想

ロロ・メイ「自分探しの神話」1994年(平成6年)2月14日 第一刷/読売新聞社 より
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私に言わせれば、ジャズ・エイジにはアメリカン・ドリームの崩壊の最初の兆しが見えた。何世紀にも渡ってアメリカ社会の盤基となっていた話の構造が根底から変わろうとしていた。

それまでフロンティア神話の中核的な公式となっていたのは、フリデリック ・ジャクソン・ターナーの「フロンティア仮説」だったが、

そのターナーのような知的で明敏な指導者ですら、時代の推移に気づいていないようだった。

ターナーは、中西部の州立大学が優れた指導者を社会に送り出して民主主義を救うだろう、と信じていた。

私はこう信じたい……教育と科学という強い力がこの傾向を変え、生活の諸問題に合理的な解決をもたらすだろう。……私は人間の精神に絶大な信頼を置いている。人間の精神は、知的な苦闘によって解決策を探り、適応の方法を見つけ出し……地上の平和に貢献するであろう。

ターナーがこの理想主義的な文章を書いたのは 1924年、すなわちジャズ・エイジの真っ只中で、迫り来る大恐慌の前兆もまだ見えず、アメリカの土台になっていた神話が根本的に変わろうとしている兆しも見えなかった。

このジャズ・エイジに、アメリカの土台となっていた神話が崩壊していくさまを記録し、それがもたらす結果を予見した、ある芸術作品が生まれた。

スコット・フィッツジェラルドの古典的小説『偉大なるギャツビー』である。 フィッツジェラルドは誰よりもましてジャズ・エイジの代弁者と見なされている。

彼はその均整のとれたしなやかな体と、素晴らしく豊かな想像力の中に、この狂乱の時代の魂をかかえていた。

彼の名は、遠縁にあたる、アメリカ国歌を書いたフランシス・スコット・キーにちなんで付けられた。何世代にも渡って母親の家族が住んでいた、

ミネソタ州セントポール市の家で、過剰に支配的な母親に育てられた。父親は、母方の家から見ると、実業界の敗残者であった。スコットの母親は、落伍者である夫は見限り、もっぱら息子に愛情を注いだ。

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