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失われた50年 その8

ラビ・バトラ「JAPAN 繁栄への回帰」1996年3月6日 初版発行/総合法令出版 より

投機をギャンブル化した金融規制撤廃

1970年代半ばから日本経済に新しく生まれた特徴のひとつに、金融の規制緩和・自由化があげられる。当時の日本政府は、しだいに銀行の規制を緩め、銀行や証券に新しい金融商品の開発を認めはじめたのである。この変化の背景には二つの理由があった。

一つ目は、1975年以来の日本の赤字国債であり、二つ目は、アメリカの政府や学者が、自分達が金融市場に導入したのと同じような金融の革新を日本にも持ち込もうと圧力をかけたことにある。

それまで日本の銀行・証券は、常に大蔵省の厳しい規制の下にあった。銀行 ・証券も、起業や支店の開設をするにはきちんと認可を得る必要があったのである。金利についても、金融・資本市場の動きに沿って自由には動かせなかった。預金金利は上限が決められ、国債発行価格も厳密に規制されていたし、銀行・保険会社・株式ブローカー(仲買人)による海外投資も制限されていた。

簡単にいえば、プラウト的政策の時代においては、金融部門はき つい規制の下に置かれていたのである。

これらの規制の目的は本来、金利を低く抑えるためにあった。例外として、貿易赤字が拡大したとき、投資に対する支出を減少させようと一時的に金利が引き上げられたこともあったが、それは緊急の事態だったのである。

政策として金利を低く誘導するためには、銀行やその他の金融機関が投機目的による株式投資で資本の無駄遣いをしないことが必要条件であった。預金金利を低く抑えたのもこの条件を満たすためであった。

これらの政策は、1929年と1930年代前半に世界規模で起きた、株式市場崩壊の余波が残るころに始まっている。投機的なバブルの崩壊が国から国へと伝わり、大恐慌を引き起こしたとき以来、政府は金利と金融制度を厳密に規制することを決定するようになったのである。

ただしこのときの規制の対象は他国の資金だけに限られ、自国の資金は含まれなかった。結果的にはこの自国の資金は規制されないという点に、のちに無謀な投資を招くというワナがあったといえる。

1920年代の苦い教訓は、1970年代後半にはすっかり忘れ去られてしまった。先ず米国政府は1977年に金融規制を取り除きはじめる。1979年に規制緩和はさらに推し進められ、それ以降どんどん加速することになった。その過程において、預金者を銀行や株式及び債券市場に惹きつけるための多くの金融商品が作られた。そのうちのいくつかは預金を増大するものであったが、オプション・金利先物・証券指数先物などは、人々を儲けるも失うも「一か八か」のリスクの大きい投資へと誘い込むことになった。この状況は、ギャンブルと投資が同義であった1920年代への逆戻りであったといえる。

プラウトはこのような「一か八かの投資」には反対である。それは人々の欲を駆り立て、投機熱を煽り、やがては恐慌を招くのである。その欲そのものは誰にも止められないが、少なくとも政府がそれを煽るべきではない。

日本では、1974年以降に赤字国債を発行したことによって、債券価格をコントロールすることが困難となった。政府の負債は大きくなり、国債を通して政府は借入れを続けたので、国債のための市場が必要になっていった。

そして1970代年後半には、債券価格は市場で決定されることになる。

それは本来、債券価格と反対に動く金利が、債券価格につられて絶えず変動を始めてしまうことになったのである。

かくして長期金利への規制は外さざるをえなくなってしまった。

また日本は貿易黒字によって流入するドルを蓄積していたので、海外投資にも規制の緩和・撤廃が行われていった。そのうえ、アメリカからの圧力が増すなか、東京株式市場は、すでにニューヨーク株式市場で始まっていた新しい金融商品を取り扱いはじめることになる。そして1985年以降は、短期金利もついには自由化されてしまう。それ以降日本の銀行はアメリカの銀行と同様に、様々な金融商品で高い金利を払わされることになっていくのである。こうして1975年から1985年の間に金融業界は大々的に変わってしまった。この変化がバブル経済の基礎を築いてしまったのである。

この変化は主に二つの影響を及ぼした。一つ目は、国民・企業・金融機関を様々な新しい金融商品で溢れる株式市場に誘い込んでいったこと。そして二つ目には銀行の資金調達コストを引き上げたことである。この二つは、あとで述べる前代未聞の不動産投機と共に、1989年後半まで膨張し続けたバブル経済を生み出すことになったのである。


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