休みたい、夏☀️

久しぶりの更新になりました。
忙しい夏を送っています。

この夏の状況はと言いますと、定期試験が20個(夏休みの前と後で半分ずつ)あるほか、国がやっている大きな試験が夏休みのどまん中にあり、とても苦しいです。9月にモダンタイムスが来るそうなので、それを楽しみに頑張ります。

高校生の時までは「試験前に部屋の掃除がしたくなる」というあるあるを全く理解できなかったのだけれど、大学生になって試験が迫ってくるとnoteを更新したくなる。これも一種のセルフハンディキャッピングなのでしょう。余裕がなくなるので、いちいちいろんなことが気になって色々書きたくなります。


言わなくていいことを言うとか、空気を読まないとか、文句が多い人に対して「こども」という評価をするのがあまり好きではないです。多分こう思うのは自分が「こども」だからなのでしょうが。

「おとな」としてするべきでない、しないべき言動であることも、だから「おとな」らしくない→「おとな」の逆→「こども」という論理は十分了解できます。ただ、この裏に隠れている、おとなよりこどものほうが下、という前提が嫌です。こどもが自由に生きてると思ってるのか?こどもだって気遣って生きてるよ。あと他人に「こども」と評価をつけることで自分が一個上がった気になってものを言っているところも嫌。他人に評価をつけるというリスキーなことをしているのだから、そんな簡単な、しかもあんまり合ってない言葉で以て言い表すなよ。
一人っ子、とかならいいです。

ムカつくことがあってもなんでそれがムカつくのか紐解いていく作業は嫌いじゃないです。論理が成立していないとか、最低限の道徳にすら反するとかだったら堂々と指摘するし、割と一般的ではなさそうな評価軸で以て悪としているのなら、嫌度合いで言わなかったり言ったりするし。

センシティブな時代なので各々の許せないことが尊重されるのは良いことと思いますが、一部の声が大きい人が作るビッグウェーブをこの時代全体の禁忌として扱うのは如何なものかと思います。「そういう発現、今気にする人多いからあんま言わないほうがいいよ」と隣から指摘するなら良いことと思いますが、「今の時代にそういうこと言うのヤバい」と時代のせいにしてこの世の悪と仕立てるのはあまり好きじゃないです。一個人として指摘すればいいのであって、なんで時代を背負って指摘するんだよと思う。みんなで一斉に怒っている感じというよりは、「貴方は一人だけど私にはみんなついてる」みたいな変な自信が寒いなと思います。
あとそういう一時的な感覚も大事かもしれないけど、もっと普遍的なものを愛せよ、と思います。

こういうところの価値観が父と合わなくて今年の冬に数日だけ家出をしました。父の一言が気に障ったので「やめてくれ」と言ったのですが、そんなことが気に障るならお前は発達障害だ、父さんは間違ってない、お前だけがおかしい、ということでした。
ある程度共有している善し悪しはあったうえで、相手方の地雷を踏んでは謝って、踏まれては許して、それをもうしないようにする、これが最低限のコミュニケーションだと思っています。関係性を構築するためには他人と自分とが違うことを知って、別に同意しなくても了解しないと話にならない。父親とはそれができない。「人それぞれ気に障るところって違って、『自分はこれが嫌だからやめてください』『はいすいませんもうしません』でよくないですか」に対してものすごいスピードで“ダメ”が帰ってきた。あ、ダメなんだ。じゃあ無理ですってなった。

全然、これは責める文脈だったけど、こういうことでいいじゃん、なんでわかってくれないのって思って、家出中にこれ見て涙出た。なんか色々間違ってる。


結局帰ってきて今なんですけど、家出前・中・後と、いろんな人に話聞いてもらって、色々言ってもらって、諦めるのが大事だと学びました。

中高の頃、誰と仲違いしたとかで悪口を言ってて「それやめてって言ってもダメなの?」と聞くと「いや言ってない」と。え、嫌なら言えばいいじゃん、言えば変わるかもしれないのに、なんでそれで悪口言うの?ってずっと思ってました。でも言ってもしょうがないってそれまでの言動で諦めてるからみんな言わないんだなってそのときやっと気づきました。あの頃のみんなの気持ちが漸くわかりました。

それから父さんと衝突があってなんか言われても一々泣かなくなりました。諦めてるから。


夜ご飯のときはいつもみんなで朝ドラを観るんですけど、「お前のそのスンとした態度なんなんだ」って相変わらずよく怒ってる。朝ドラ観てるのにわかんないんだ。普通に頭悪いなと思いました。

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