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美の存在と発見

わたくしは新茶をよろこぶ心で淹れましたので、円やかにあまいような、やわらかいかおりに出ました。

さっきから近くで鳴いていた蝉が、最後に大きい声で鳴いたあと、小さく消え入るような声で鳴いて、それっきり静かになってしまった。蝉の一生が終わる瞬間を、わたしは隣で横になりながら立ち会った。横になりながら立ち会うって日本語としてどうなのか

夏になってから体調がずっと悪くて、療養するつもりでひと月前に実家に帰省した。だけど実家にいても胃がやられたり目がやられたり風邪を引いたり散々だった

中学生のときに、国語の授業で志賀直哉の「城の崎にて」を読んで、温泉地で療養するということに憧れを覚えた。そしてそれは今でも変わらない。今回の帰省を自分のなかで「療養のため」と位置づけたのは、まちがいなく「城の崎にて」の影響である

城崎温泉とちがって、わたしの地元は温泉地でもなんでもないが、それでも久しぶりにまじまじと家の周りの風景を見ながらゆっくりするのは、肉体はともかく、精神的にはポジティヴな影響が及ぼされたのではないかとおもう。和室のすだれの隙間から見える庭を見たり見なかったりして、横になってうとうとしていた。家の庭にはずっと大葉が植えてあって、昔から祖母が昼ごはんにそうめんを作るときは必ず庭から大葉を取ってきた。わたしが高校生だったころに、ぶどうが植えてあったところは、今はアボカドが植えてあるらしい。実はなるか知らないが、とりあえず木は育っていた

わたしは中学生のときから地元が嫌いだった。嫌いになったきっかけが何だったのか今は覚えていないが、違和感というか不信感というか、漠然と地元に対して嫌悪感を抱いていた。その嫌悪感は、地元を離れ街の高校に3年間通い、さらに上京して東京で4年間暮らしたことで、徐々に明確になっていった。わたしは田舎の文化が気に入らない。田舎の文化にのっとって生活をするのが耐えられない。田舎の文化を信じて疑わない他人と関わることができない

この世に存在するすべての事象のなかで、人類共通して100%正しい、正しくない、または100%好ましい、好ましくないと評価できるものはない。すべてがグレーで、正しいのか正しくないのか、好ましいのか好ましくないのか、それは個人がそれぞれのものさしをもって判断することである。そのものさしはひとによって形が様々で、物心ついたときからしている癖や遺伝といった先天的なものと、そのひとの生まれ育った環境や経験してきたことというような後天的なものから形が決まっていく。もちろん時間が経つにつれてものさしの形が変わる場合もある。そんな流動的なものさしで該当する事象について分析して、両者を比較して、こっちがよろしい、と気に入った方を選択している

わたしは地元が嫌いだけど、こうしてたまに帰ってきて、のんびりする分には地元は悪くない場所だとおもう。これは都会で生活するようになって気づいたことだ。でも、この地元で毎日生活はしたくない。もちろん都会にも嫌なところはあるけど、それでもわたしは都会で生活する方がずっと良いと考えている。でもこれもいつかは変わるかもしれない。だってまだ4年しか東京で生活していないから

一昨日に風邪を引いてから、ずっとこじらせている。実家に帰ってから二度目の風邪だ。両方とも原因は寝冷えという、なんとも情けない原因だが、免疫力が最底辺にまで落ちてしまった老体ともいえるわたしの体は、そんな簡単な風邪すら治癒できないらしい。今日はついに家にあるポカリスエットをすべて飲み干してしまい、残る水分は2ダースと数本ある500mlのクリスタルガイザーと、ペットボトルのモンスターだった。帰省初日にコンビニに寄ったときに、わたしは初めてペットボトルのモンスターを見た。赤色と青色両方買ったが、まだ飲んでなくて冷蔵庫に入れたままだった。ただの水よりも、エナジーを摂取した方が元気になるのでは、と考え、わたしはクリスタルガイザーではなくペットボトルのモンスターを飲むことにした。味はなんともいえない人工甘味料の味で、炭酸はなかった

ただ、このペットボトルのモンスターはすごかった。スポーツ時向けと書いてあったから、そこまでカフェインは多くないのではとおもい、喉が乾いていたので一気に1本飲み干したが、それから目が冴えに冴えてしまってまったく眠れない。頭は痛いので横になるしかないのだが、横になってもまったく眠くならない。目を閉じて、眠りにつくまで不毛なことをひたすら考えるしかない。隣の部屋で祖父と祖母が見ている2時間サスペンスの再放送の音声、風で庭の草木が重なる音、遠くの木で鳴く蝉の声、どこかで鬼ごっこかなんかして走っているガキどもの声。わたしの耳に入ってくる周りの音をBGMにしながら、そして不毛なことを考えるにあたってなにかきっかけにするように、目を閉じて耳と頭だけを動かす

目を閉じてから少し経ったとき、わたしの近くで蝉の鳴き声がするようになった。しばらく威勢よく鳴いていたが、最後に大きい声で鳴いたあと、小さく消え入るような声で鳴いて、それっきり静かになってしまった。蝉の一生が終わる瞬間を、わたしは隣で横になりながら立ち会った。横になりながら立ち会うって日本語としてどうなのか。

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