見出し画像

受身上手はいつからなのか

というわけで昌造も、また彼の友人も「決局時間の問題だから永くかゝって居るうちにはどうにかなるネ」と、昭和五十年代の農林水産省のようなことを考えている。

キングオブコントがおもしろかった。今年はわたしが好きなコント師の方が多く出ていて、その方たちには全員優勝してほしかったので、優勝者を一組に決めるのはとても心苦しいものがあった。でも、とてもおもしろかった

優勝した某コント師のコントで、わたしが一番好きなものは「定時制高校」というネタ

彼らのコントの中で、多分これが一番多く見ているコントだとおもう。次が中華夫婦

なぜこの「定時制高校」がこんなにも好きなのか、単純におもしろいからというだけではないな、とすぐわたしのよくない分析ぐせが出てしまって、そして彼らが優勝したこともあいまって、最近「なぜわたしはこれが好きなのか」と考え込むことが多くなった

中学生のときからラのつくコンビがとても好きで、彼らのコントもどれも好きだけど、その中でも好きなコントは「アトムより」と「金部」

初めてみる方は、これの前に「アトム」というコントを見たらもっと楽しいとおもいます

この「アトムより」でも引用されているけど、ラのつくコンビのコントで、特に大切にしていることは、「日常の中の非日常ではなく、非日常の中の日常」を描くことらしい。そしてどうやらわたしは、この「非日常の中の日常」にひどく惹かれているらしい

多くのコントが、「日常の中の非日常」を描くものだとおもう。なぜなら、その「非日常」の部分に意外性があって、そこに感情が表れて、おもしろいとおもいやすいから。普通に街を歩いていたらいきなり変なひとが出てきた、というように、「普通に」の部分が日常で、「変なひと」が非日常としてコントが成立していく

そう考えると、「非日常の中の日常」を描くのはとても難しいことなのかもしれない。「非日常の中の日常」で笑いを発生させるためには、まず観客に「非日常」に入り込んでもらい、同じ「非日常」を共有することが必要であり、そしてその中で突飛な、換言すれば安易な方法ではなく、「非日常の中の日常」で起こりうると想定されることで笑いを生み出さなければならない

例えば、真面目に勉強している教室にヒゲデブがいきなり登場したら、迷わず振り向いて大きい声で自身の感情を吐露したり、ヒゲデブに向かって何か言葉を言いつけたりするのが普通だとおもう。だけど、「定時制高校」では、いきなり教室に入ってきたヒゲデブに特に注目することもなく、授業が淡々と進められていく。このコントの中では、ヒゲデブが教室にいきなり登場することが「日常」であり、誰もその「日常」につっこまないしぼけることもない。観客は、いつのまにか「非日常の中の日常」に入り込んでいき、「非日常の中の日常」を共有し、その中で起きる「日常」の出来事に笑ってしまう

「アトムより」もおんなじで、忠実に人間の姿を再現したロボットが家にいることが彼らの「日常」であり、そのロボットと一緒に遊ぶことも「日常」であり、それについてつっこんだりぼけたりはしない。あくまでも、「非日常の中の日常」で起こる小さな「日常」の出来事に、わたしたちは笑っている

「非日常の中の日常」を求めているのは、コントだけにはとどまっていない。わたしが高校生の時に読んだ、森博嗣先生の「実験的経験」という本があって、初めて読んだ時から今でもずっと好きだ

この本も、まさに「非日常の中の日常」というかんじだ。特にわたしが好きなのは、「落ち葉ログ」と、森先生のひとりごとのような日記のようなお話の2つで、森先生が暮らしている日常はわたしにとっては「非日常」と呼ぶにふさわしい憧れる生活であるから、そしてわたしの暮らす「日常」とはまったく異なるものであるから、そんな「非日常」で生活する「日常」の記録はとても魅力的に感じるんだとおもう

音楽でいうと、例えばピチカート・ファイヴは「非日常の中の日常」を音楽にしているといえるのではなかろうか。小西さんが作るあの音と歌詞と、それを歌いこなす野宮真貴さんの姿は、最初から最後まで一貫した何かがあった。その一貫した何かが、わたしにとっての「非日常」に近いものであり、その「非日常」について音楽にしている彼らは、「非日常の中の日常」をのびのび楽しんで生きているように見えた

ピチカート・ファイヴといえば(といえばといったら各方面の方々から怒られるかもしれない)、スチャダラパーも昔から今までよくきいていて、好きな曲はこれまたたくさんあるけど、わたしの中では「SANTAFUL WORLD」が一番「非日常の中の日常」に近いかな、とおもう

1:50くらい、「グレーのタートルを着た彼女は」あたりのリリックが特に素敵で、高校2年生の時、数学の先生に怒られた帰り道にこれをきいていてここの部分でいろんな感情が込み上げてきて泣いてしまったくらい好きだ

言ってしまえば、わたしが日々暮らしているものとは異なるもの全てが「非日常」になってしまうんだろうけど、「非日常」の中にも程度というか、レベルというか、グラデーションのように段階になっていて、その判断基準は自分でもまだよくわからないんだけど、「SANTAFUL WORLD」の世界や、ピチカート・ファイヴの世界、森先生が暮らす世界、富樫くんとノスが暮らす世界、定時制高校の世界、それぞれの世界がわたしの中の何かに響いて、いいな、と憧れる部分があって、その世界にわたしも混ぜてほしくて、「非日常」に入り込むことを求めているのかもしれない

日常において、「非日常の中の日常」を実践してみようとしても絶対に不可能だ。非日常をがんばって作ったとしても、それは「日常の中の非日常」を創出したに過ぎないのであり、結局パラドクスのようになってしまう

だからこそ「非日常の中の日常」を鑑賞するのが楽しくて、おもしろくて、魅力的だとおもうのかもしれない。「非日常の中の日常」に入り込みたいと求めることは現実逃避のようなものであって、わたしが生きていても経験できないことや感じることができない気持ちを教えてくれるし、体感させてくれるものだとおもう

わたしはそんな「非日常の中の日常」をただ享受するだけしか能のない人間であるけど、こんな人間のために「非日常の中の日常」を提供することができるひとたちは本当にすごいとおもう。そんな方々のおかげで、わたしは自分ではどうすることもできない人生において楽しみや喜びや驚きをを見出すことができる

そんな方々が、多くのひとたちから正当な評価を受けたということがとても嬉しい。遅いくらいだと言いたい気持ちもあるけど、でも評価されたことはやっぱり嬉しい


空気階段、超優勝おめでとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?