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都電 メモ No-27

都電 今は荒川線しか残っていないが! 最近近くに住む方と話していたところ! 昔の話になり都電のお話に!自分の住んでいるの近くでも走っていたとか! 面白い話がたくさん聞けて! 100年前頃から、戦後オリンピック開幕頃まで!都内の主要交通機関として使われていた! それは今の地下鉄路線と少し重なっていたりいなかったり、近々重ねてみようかとも思う! 脱線とか事故とかが多かったとか! 当時の様子を見てみたかった気もするが!今は当時のことを知っている方にお話を聞くしかない! また記録しておかないと思うのは私だけでしょうか? 写真を集めたり昭和20年生まれくらいの人にインタヴューしてみたい!

今ではそのようなイメージが強い銀座ですが、かつて路面電車の都電・銀座線が走っていた歴史もあります。今回、この都電・銀座線を足跡を辿ってみました。昔の写真と今の写真を比較しながら、銀座という街をのぞいてみましょう。
明治から昭和を駆け抜けた、もう一つの「銀座線」
銀座線――。そういわれて誰もが自然に想い浮かべるのは、東京メトロ・銀座線ではないでしょうか。東京メトロ・銀座線は「アジア初の地下鉄」として1927(昭和2)年12月30日、上野~浅草間でまず開通しました。その後、銀座、渋谷まで延伸(浅草~渋谷間の全通は1941年)し、現在の東京メトロ・銀座線に至ります。

1920年頃の銀座。この頃は市電が走っていたimage
しかし、東京にはかつてもう一つ、銀座線の愛称をもつ鉄道路線がありました。路面電車の都電・銀座線(※1系統)です。都電(正式には東京都電)の前身は1911(明治44)年に発足した東京市電です。

※都電1系統の主な電停(路上の駅)=品川駅・泉岳寺・三田・浜松町1丁目・新橋・銀座7丁目・銀座4丁目・銀座2丁目・京橋・日本橋・室町1丁目・神田駅・万世橋・末広町・上野広小路・上野公園・上野駅前

大正時代の通勤を描いた絵葉書。タイトルは「東京名物満員電車」
東京市電は明治後半期から昭和前半期までの帝都・東京における都市交通の花形でした。しかし、第2次世界大戦で壊滅的な打撃を受けた後、東京の戦後復興とともに復活し、東京市が東京都へ移行するのに付随して「都電」へ衣替えします。
 それ以後1960年代半ば頃まで、東京の主要市街地には都電が縦横に走っていました。最盛期の路線系統は40数本に及び、なかでも栄えある「1系統」の名称が与えられていた銀座線(品川駅~上野駅前、総延長10.9㎞)は、都電を代表する花形路線でした。
都電はやがて、高度経済成長時代の幕開けとともに訪れる自動車交通の急激な発展と入れ替わりに、路面から姿を消していきます。そんな都電の往年の姿の名残は、今も唯一、現役で運行されている都電・荒川線からわずかに感じ取ることができます。
そして都電・銀座線が廃止されたのは1967(昭和42)年12月10日――。
まずは銀座線の花形車両・5500形に詣でる
銀座には銀座線(1系統)を含め、都電の廃止が順次開始される直前の1960年代前半の時点で、計7系統が乗り入れていました。車両にもさまざまなタイプがありました。
中でも写真の5500形(都電・荒川車庫横の「都電おもいで広場」で保存展示中)はアメリカの最新技術を取り入れ、1954(昭和29)年に国内で製造された大型の高性能車両で、PCCカーの愛称で呼ばれていました。

精悍でかわいい5500形。銀座行きの表示が誇らしげ
銀座を走っていた都電は銀座線だけじゃありません。写真の5500形は銀座線が廃止される1967年まで現役で走り続けましたが、製造されたのはこの車両を含め、実はほんの数両だけ。
満を持して高性能車両を造ってはみたものの、技術的な問題が出てきたのと同時に、自動車交通量の増大などから、都電の衰退もこの頃から急速に現れ始めました。そんな関係から、量産体制には移行できなかったようです。

ちなみに写真の5500形に付いた「1」のナンバープレートは「1系統」を表し、ライトの下にプリントされた5501の数字は、5500形の1号車を示しています。つまりこの車両が初めて造られた5500形なのです。
都電ファンにはまさにご神体のような5500形車両とともに、1962(昭和37)年製造の7500形車両まで展示されていて大感激。ちなみに7500形車両は旧青山車庫に所属し、主に渋谷を起点とする路線で活躍していた車両だといいます。

都電廃止計画の実践は、1964年東京オリンピックに付随する東京大改造の各種工事と共に始まりました(※渋谷川など東京のあちこちの市街地に流れていた河川も、この頃に集中して暗渠化されていきます。
高度経済成長時代のメインイベント・1964年東京オリンピックを境に、自動車交通網の整備が優先されると共に東京の主要市街地から、河川と都電が消えていったという事実は、日本全国の都市化やまちづくりの歴史を考える際にも、いろいろな意味で象徴的です)。
『都営交通100年のあゆみ』(東京都交通局)によれば、新たな道路工事や地下鉄工事などの計画を推進するのに伴い、1963年にまず利用者数が激減していた小さな路線の廃止を開始したようです。そしてオリンピックから3年後の1967(昭和42)年から、メインの路線を含む都電の本格的な廃止事業が開始されます。
都電・銀座線(1系統)は前述のように、1967(昭和42)年12月10日に廃止されましたが、これが本格的な都電撤去計画の第1弾でした。さらに同じ日に計8系統が廃止されたのを皮切りに、都電は1971(昭和46)年までの足かけ5年間で、計40系統が次々と廃止されていったのです。

電車案内図(昭和37年/ 提供:東京交通局)
都電・銀座線(1系統)の運行コースは前述のように品川駅~上野駅前です。実は品川駅~新橋までの第一京浜も、新橋~上野駅前までの中央通りも、元はといえば同じ国道15号線です。そのなかの新橋~上野間だけがわざわざ中央通りと呼ばれるようになり、地図にもそう記されるようになった背景には、同区間が文字通り、都電・銀座線も走っていた1960年代半ばまでの東京のメインストリート中のメインストリートだったからでしょう。 

実際に品川を起点に、新橋、銀座8丁目~1丁目(銀座通り)、京橋、日本橋、室町、神田、秋葉原、万世橋、上野などが続くこの区間=中央通りは、日本が近代を迎えた明治時代から昭和の半ばに至るまで、首都・東京の代表的なビジネス街を網羅していたのだといえます。
同時に日本のすべての道路の起点とされる「日本国道路元標」が設置された日本橋の存在も、東京中の道路のなかの道路を示す「中央通り」にふさわしい「箔」といえます。
だからこそ、とくに大正時代以降、国鉄(JR)や私鉄が並行するようにしてこの区間の周辺を縦横に走ってきました。さらに新橋~上野間の中央通りの地下には、地下鉄・銀座線が走り、地上には多数の路線バスとともに、銀座線(1系統)をはじめとするいくつかの系統の都電までもが同時に走っていたのです。
と、そのように意気込み、中央通りを新橋から歩き始めたのはいいのですが、案の定、都電・銀座線の痕跡はなかなか見つかりません(笑)。「このままではいったい、どうなることやら」。
そう不安にかられつつ、中央通り沿いの炎天下の歩道をひたすら歩き続けているうちに、目の前にやがて陽炎越しの蜃気楼のような情景が立ち現れてきました。蜃気楼のようにゆらゆら見えたのは、大勢の人々の姿でした。
銀座8丁目から先は車が完全シャットアウトされ、人々が路上を自由に行き交っています。「あ、そうか!」今日は週末の土曜日。銀座では恒例のホコ天が実施されていたのでした。

なつかしきホコ天に遭遇する

さっそく歩道から車道へと下り、両側に銀座通りの瀟洒な街並みを眺めつつ、かつて都電・銀座線の駅が路上にあった銀座7丁目へと進んでいきます。これはまさに「都電からの視線」(視点の高さはかなり違いますが)と同じです。

1905年頃の銀座7丁目 (image by: Wikimedia commons)
やがて5丁目から4丁目へと進み、今度は逆に車道を歩く人々を撮影しようと歩道に上がると、あることに気づきました。銀座通りの歩道はモザイク模様のように、微妙に色の違う石タイルが敷き詰められています。
ベージュやグレイ系統が中心のその石タイルのなかに、時折、色の褪せたような黒っぽい石タイルが混じります。そこでまた「あっ!」と気づきました。これはひょっとして都電の敷石では?
都電の線路を支えた敷石が、都電廃止後に歩道の敷石などに再利用された例は、例えば新宿区の荒木町の事例などがいくつもあり、決して珍しいことではありません。
中でも都電・銀座線の敷石は黒っぽい御影石が使われていたと、本で読んだことがありました。そこでとりあえず歩道のタイルを撮影することにしました。そのとき撮った写真がこれです。

黒っぽくみえる石タイル(御影石)が都電・銀座線の敷石

週明けの月曜を待ち、銀座界隈の商店街を束ねる「銀座通連合会(中央区商店街連合会)」の事務局に電話で問い合わせると、まさにこの黒っぽい石タイルこそ、かつて都電・銀座線で敷石として使用されていた御影石とのことでした。
実は銀座通りの歩道に都電の敷石(御影石)が再利用されていることは、都電や銀座に詳しい人たちの間ではよく知られている事実だということもあとで知りました。まことに恥ずかしい限りですが、これでひとつ、新知識が増えました。
ところで銀座のホコ天にも、都電にまつわる歴史があります。銀座のホコ天が始まったのは1970(昭和45)年8月2日から。
都電・銀座線(1系統)の廃止から3年後で、銀座通り(中央通り)に乗り入れていた7系統のうち、ホコ天が始まった時点で運行していたのは22系統(南千住~新橋、1971年3月廃止)だけでした。しかし、この22系統も1967(昭和42)年のうちに路線を短縮して、銀座通りは通らなくなっていたのです。
銀座のホコ天は、当時の美濃部亮吉都知事が「いつも車に支配されている道路を市民に開放しよう」という趣旨で発案したとされます。したがって銀座とともに、やはり道路渋滞のひどかった新宿、池袋、浅草でも同時に始まりました。
増大するばかりの車に追い出される形で廃止された、都電にとっては「聖地=墓場」ともいえる銀座通りや、新宿・池袋の目抜き通りから逆に車を追い出し、歩行者のための束の間の「天国」にしようというわけです。
もちろん、都電がまだ普通に走っていたら絶対に実現しなかったでしょう。そういう意味合いにおいて、銀座通りのホコ天(歩行者のための天国)は、いわば「都電・銀座線のお墓」の上に実現した企画でもあるわけです。
そんなことをおもいながら銀座通りの車道、つまり都電・銀座線の「夢の跡」をてくてく歩いていると、ごく小さい頃にこのあたりを、両親につれられ、都電に乗っていたときのことなどがおぼろげながらも、しきりに思いだされてくるような気がします。
後から聞いた話では、銀座通りの所々に、銀座線の線路がまだ埋っているのだそうです。ホコ天でその上を歩いた経験が妙に楽しかったり懐かしかったりしたのは、まさに都電の本物の線路の埋っているその上を、昔の都電体験などを思い出しつつ歩いた(リアル都電ごっこ・笑)からなのかもしれません。

三越と和光が向かい合う銀座4丁目。交差する晴海通りにも都電が走っていた
 

大正初期頃の銀座4丁目。左手うしろに見えるのが、旧服部時計店image by: Flickr / SDASM Archives
 

ホコ天から街並みを眺めれば都電からの視線を体感できる

三越と共に銀座の百貨店の伝統を守る松屋。銀座2丁目・電停のすぐ前だった

江戸初期に銀貨鋳造役所が設置された旨を記す「銀座発祥の地」の碑(銀座2丁目)

銀座を出て一路、終点・上野駅方面へ
(銀座1丁目〜日本橋〜万世橋〜上野公園)
銀座の端っこ銀座1丁目を過ぎると京橋。ここからは日本橋・室町方面に向かって、銀座通りよりもさらにレトロな雰囲気の街並みが展開します。

それにしても銀座和光、銀座三越、丸善、銀座松屋、日本橋三越、日本橋高島屋など日本を代表する老舗の百貨店や各種の専門店、さらには金融関係の地味ながらも文化財的な建物に、あの「日本橋」など、重厚かつ歴史的に貴重な建造物群が次々と現れる銀座通り・中央通りの景観をみていると、こここそが、まさに近代東京のメインストリートなのだと改めて実感されてきます。

明治時代の日本橋の様子(image by:urbzoo/ Wikimedia commons)

高速道路に上をふさがれる前の日本橋を都電・銀座線は知っていた

都電・銀座線の主要なお客さんたちもまた、このあたりの会社に勤める当時のエリートビジネスマンや、老舗百貨店や専門店に買い物に行くオシャレな女性たちが多かったのでしょう。

日本橋三越の前はまさに「中央通り」の貫録十分
日本橋を過ぎ、室町を過ぎ、神田や秋葉原に進んで行くと、沿道の雰囲気がまた変化していきます。このあたりは銀座文化圏と上野文化圏の中間。
レトロな建物が多いという点では共通していても、どこか下町的雰囲気と都会的雰囲気がミックスしたような和モダン的な「敷居の低さ」を感じます。都電・銀座線に乗り、観光目的で新橋・銀座方面から来た昔の人たちもきっと、そう感じたのではないでしょうか。
土曜日の秋葉原は銀座と同様に、外国人観光客で目白押しの賑わいです。アキハバラは今や世界の共通語として、その街としての在り方も広く認知されていますが、都電・銀座線が走っていた頃のアキバは、電気部品関係の業者やよその街にない電気部品を求める各種の専門家やマニアなどの集まる街という雰囲気。外国人観光客や萌え系の若者たちなどとはまるで縁のない街でした。

都電・銀座線は秋葉原電気街もすいすい走った
クラシックな親柱が残る万世橋付近は、東京駅が完成する以前の日本の鉄道史初期の主舞台でもありました。また秋葉原に集まる現代の若者たちの多くは、現在さいたま市にあって都電関係の展示も充実している日本最大の「交通博物館」の母体が、2006年まではここ万世橋にあったことなど知らないでしょう。
ましてや石造りの万世橋から秋葉原の電気街を、都電・銀座線がガタゴトと走り抜けていたことを知らない人は、もっともっと多いことでしょう。

神田駅のガード下を通るとき、都電は轟音を立てたに違いない

万世橋は日本鉄道史の重要地点

秋葉原を過ぎれば、終点の上野駅前はもうすぐです。都電やバスが昔から数多く行き交った末広町駅や上野広小路駅、動物園や美術館、不忍池などに行く行楽客が利用した上野公園駅の付近を通り過ぎると、目の前は上野駅。ガード下をくぐって正面口に回れば、そのあたりが都電・銀座線の終着駅・上野駅前跡です。

上野公園下からガードをくぐると終点は間近

終点・上野駅前の電停は現在のタクシー・プールの付近

さて、2017年の今年が都電・銀座線の廃止から50年目の節目だということはすでに書きました。そして同じ銀座線の呼び名をもつ地下鉄・銀座線は今年で開通90年目の節目を迎えました(上野~浅草間)。
銀座を経由して渋谷~浅草間が全通してからは、今年で76年目となりますが、筆者は都電・銀座線を考えるとき、つい地下鉄・銀座線をセットのように連想してしまうのが常です。
それは例えば、今回歩いた新橋、銀座7丁目・銀座4丁目・銀座2丁目、京橋、日本橋、室町、神田、万世橋、末広町、上野広小路、上野公園、上野駅などの都電・電停跡のあった位置の地下には必ず、地下鉄・銀座線の駅が今も設置されているという共通性におもいが至るからなのかもしれません。

都電・銀座線の新橋~上野間は、地下鉄・銀座線と共に、地上と地下を、同じ時代の空気を吸いながら一緒に走っていたのです。
兄弟とまではいいません(笑)。両者が親しい従兄弟ぐらいの感じにみえてしまうのです。
そこで最後にご紹介するのは、冒頭に掲載した都電・銀座線の花形車両5500形にも匹敵する貴重さと、筆者が勝手に考えている地下鉄・銀座線の最初期車両1001号車の写真です(地下鉄博物館所蔵)。

スマートな車体の地下鉄銀座線1101号車両(国指定重文)
この車両は地下鉄・銀座線が1927年12月30日に、上野~浅草間で開通した時に、まさに実際に走行していた最初の車両で、今年3月10日には国の重要文化財に指定されました。
地下鉄・銀座線は、こうして開通90周年にふわしい新たな称号を得たわけですが、50年前に消滅したもう一つの銀座線、都電・銀座線には、さしずめ「重要記憶遺産」の称号を差し上げたい(笑)! 都電・銀座線が銀座史に果たした功績や、かつての愛らしい走行姿を知れば知るほどそんなおもいが強まってくる、都電・銀座線を巡る《幻影散歩》でした。

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