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中村哲さんの言葉!NO_04

中村哲さんの 言葉

「戦争で国が良くなることはない」

「日本は、軍事力を用いない分野での貢献や援助を果たすべき」

「日本の平和的なイメージが非常な好印象を、アフガンの人たちに与えていることは事実です」

「アフガンの人たちは、親日感情がとても強いですしね。それに、我々は宗教というものを、大切にしてきました」

「まず生きること」

「照一隅(いちぐうをてらす)」  意味… 自分が置かれた場所で、一つのことに最善を尽くす

「戦争をしている暇はない」

「子どもたちや孫たちに良いアフガニスタンを残すこと、それが一番」

「アフガニスタンでは温暖化の影響で農地が乾燥し、年々失われて、食料が少なくなり、深刻な事態になっている。私は医療関係者だが、薬だけでは人々の健康は守れない。清潔な水、それから十分な食べ物を確保するために、かんがい事業が欠かせない

「(支援は)医療だけでは限界がある」

「医者よ、信念はいらない まず命を救え」

「国際機関は、とにかく数字を示して自分たちの活動の成果を誇示しようとします。そうすることが、次期の予算やなんかにも影響してきますからね」

「この30年間(アフガニスタンを)見ていて、まず破壊ばかり。それだけでした」

「依然としてテロとの戦いと拳を振り上げ、『経済力さえつけば』と札束が舞う世界は、砂漠以上に危険で面妖なもの」 ※面妖(めんよう)… 不思議なこと。怪しいこと

「希望を守り育てるべき」

「自分の国の教育もきちんとできていないのに、よその国の教育がどうのこうの言ったって仕方ない」

「もし真理というものがあれば、それは地下水みたいなもの」

「無駄なところへ援助資金が投下されている」

「命に対する哀惜、 命を愛おしむという気持ちで物事に対処すれば、 大体誤らない」

「善意の押し付けだけでは失敗します」

「地元の人が何を求めているか、そのために何ができるか、生活習慣や文化を含めて理解しないと」

「どの場所、どの時代でも、一番大切なのは命です」

「みんなが生きていかなくちゃ」

「生きている上で『人として最低限これくらいはしなければ』ということを大事にしていけば、どんなに世の中が変わっても、大体誤りはないのではないか」

「我々は、日本政府からは一円の援助も受けていません」

「来る日も来る日も治療していくが、追いつかない」

「自分の気に入ったところで、 自分のできる範囲で、人々と楽しい気持ちで暮らす方がいい」

「好きなことをしているだけ」

「道で倒れている人がいたら手を差し伸べる。それは普通のことです」

「信頼関係があること、これが武器よりも一番大切なこと」

「誰も行かぬなら、我々が行く」

「僕は憲法9条なんて、特に意識したことはなかった。でもね、向こうに行って9条がバックボーンとして僕らの活動を支えていてくれる」

「議論はいらない行動あるのみ」

「平和とは観念ではなく、実態である」

「平和は目的でなく、結果でしかない」

「生きておれ。病は後で治す」

『100の診療所より1本の用水路』

「武力が安全をもたらすものか、丸腰で行う用水路建設が教えてくれる」

「いくら薬をつぎ込んでも飢えや渇きは治せない」

「誰もそこへ行かぬから。我々がゆく。誰もしないから我々がする」

「戦争協力が国際的貢献とは言語道断である」

「戦争協力が国際的貢献とは言語道断である」

「9条がリアルで大きな力だったという現実」

「憤りと悲しみを友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすこと誓う」

「実際、病気のほとんどが十分な食料と清潔な飲料水があれば、防げるものだったから」

「人として最後まで守るべきもの何か、尊ぶ(たっとぶ)べきものは何か、示唆るところを歩挑んでいただければ幸いである」

「人間にとって本当に必要なものは、そう多くはない。少なくとも私は(カネさえあれば何でも幸せになる)という迷信、(武力さえあれば身が守られる)という妄信から自由である。何が真実で何が不要なのか、何が人として最低限共有できるものなのか、目を凝らして見つめ、健全な感性と自然との関係を回復することである」

 アフガニスタンで銃撃されて亡くなったNGO「ペシャワール会」の現地代表で医師の中村哲さん(73)は、30年以上にわたる活動を通して考えたことを文章につづり、講演やインタビューで語ってきた。その言葉には、読む者の目を開き、考えさせる力がある。過酷な現場からの発信は世界や日本社会を鋭く突き、深い思索から生まれた声は受け手の心に水のようにしみ入る。遺された言葉をいま、改めて読み直したい。
(いずれも朝日新聞記事より抜粋、日付は紙面掲載日)
現地の人の立場で考える

講演する中村哲さん=2006年

1990年8月3日
 パキスタン・ペシャワルの病院で主にハンセン病患者の診療にあたった6年を振り返るインタビューで
 地元の人が何を求めているか、そのために何ができるか、生活習慣や文化を含めて理解しないと。難民向けの医療協力は各国から来ています。でも、善意の押しつけだけでは失敗します。

1992年5月22日
 アフガン難民への国際支援についてのインタビューで
 1988年5月にソ連軍が撤退を開始してから、約270万人のアフガン難民がいたペシャワルだけでも、それまで50団体前後だったNGOが、あっという間に200団体以上にふくれあがりました。
 (難民帰還への日本の関わり)88年5月に国連本部が作った青写真に日本政府が飛びつき、日本国際ボランティアセンター(JVC)が評価して計画にゴーサインが出た。難民に予防接種をし、1年分の食糧と種モミを持たせて帰す計画で、何百人もの現地スタッフと数百台の大型トラックを雇う、20億円前後の大規模プロジェクトです。しかしアフガニスタン国内の混乱などから本格的な活動が行われないまま91年、日本政府は残りの資金援助を凍結しました。
 失敗の一因は国連の青写真そのものにあります。しかしそれ以上に、うのみにした日本側の国際認識の甘さ、情報収集の弱さが現地で失笑を買っています。この甘さは、どこか日本の発展途上国を見る目のおごりを感じさせます。その裏返しとして、国連がすすめることだから間違いないだろう、という素朴すぎる国連信仰があるのではないでしょうか。
 どのNGOも文書では、現地の習慣を尊重する、とうたっていますが、プロジェクトを実施する段階ではほとんど考慮されません。
 ある団体は、識字率を向上させるため難民女性を公の場に引き出そうとした。男女隔離の厳しいイスラム社会では異様なことだし、当の女性たちも嫌がった。そもそもアフガニスタンの内戦が、親ソ政権による強引な女性解放政策に端を発したことを忘れています。90年以降、この団体を含めいくつかのNGOが難民に襲撃され、死者まで出ました。
 色々不満を並べましたが、学ぶべき点が多いのも欧米のグループです。数は少ないが、現地語を覚え、自己宣伝することもなく30年も40年も現地に居ついて溶け込んでいます。私もパシュトゥ語、ペルシャ語、ウルドゥ語を覚え、現地の人の立場で見たり考えたりすることに努めました。
 (日本は)欧米と比べて国際援助活動の歴史が浅いことを逆手にとるのも一つ方法でしょう。今のところ欧米団体のように価値観を押しつけることもさほどなく、活動の規模も小さいからそれなりに純粋な面を残しています。助けるつもりで行ったら日本人より心が豊かだったとか、奉仕というより役得だったとかいう人がいますが、その視点から見直してみることも国際化ということにつながっていく。
 気になるのは「国際貢献」という言葉が国連平和維持活動協力法案(PKO法案)とのからみで声高に語られていることです。戦争中の発想とあまり変わっていないのじゃないか。あのときもアジアに貢献するんだといって「八紘一宇(はっこういちう)」というスローガンが掲げられました。でも結果は国際破壊に終わりました。いま、自衛隊の海外派遣を前提にしたPKO論議がまかり通っているのは、日本人が昔のことを十分総括していないからだと思います。時代錯誤です。

「復興協力」はオリンピックとは違う
1993年3月9日
 文化面への寄稿 見捨てられるアフガンの民衆
 1979年12月の旧ソ連軍介入以後、実に14年にわたる内乱で国土が荒廃し、約200万人の死者と600万人の難民を出したことを記憶する人もあろう。88年、ソ連軍撤退でわいた世界は華々しい「難民帰還・復興援助」を知らされたが、それらのプロジェクトは巨額を浪費したあげく、“不発”のままに幕を閉じかけている。
 問題は、本当に復興支援の必要な今、援助プロジェクトが次々と閉鎖または縮小していることである。少なくとも保健医療分野では、東部アフガニスタンにおいて実質上JAMS(日本―アフガン医療サービス)のみが活動を続けている。あの華々しかった「アフガニスタン復興協力」を思うと、あまりにさみしい顛末(てんまつ)である。JAMSの診療数は昨年4月から12月まで8万人に迫り、「ペシャワール会」を通し、必死の補給でかろうじて回転しているのが実情である。
 「復興協力」はオリンピックとは違う。喝采(かっさい)を競う参加の実績が問題ではない。国連にこだわらず、工夫すれば可能なことも多い。「国際貢献」を錦の御旗にして「カンボジア」に人々の関心が集中している今こそ、巨費を投じたアフガニスタン復興援助の結末を謙虚に総括し、「人道的援助」の名に恥じぬ誠意を行為で示すべきではなかろうか。そうしてこそ、日本は真に国際的尊敬をかちうるはずである。
 おおかたの外国救援団体が「活動停止を余儀なくされる」なか、せめて我々だけでも日本の良心の証(あかし)となろう、と願っている。

中村哲さん=ペシャワール会提供
1998年1月27日 
 福岡県久留米市での講演から
 15年を振り返ってみると、助けに行ったつもりが、実際はペシャワルの人たちの笑顔に助けられて、楽天的に生きてこられたと思う。

私が学んだのは人間の病理である

中村哲さんの死を悼み、肖像画の前に献花する女性=2019年12月10日、米ニューヨークのアフガニスタン総領事館

2000年2月4日
 文化面への寄稿 基地病院建設、複雑な対立超えて完成
 発足して15年を過ぎた事業は、今や150人の現地職員を擁し、ペシャワールに二つの病院とパキスタン・アフガニスタン北部山岳地帯に五つの診療所を持つ医療組織に成長した。その診療数は年間15万人を超え、淡々と人々の海の中を泳ぎ回るように、活動を展開してきた。現地では住民の強い信頼も得、殊にアフガニスタン東部ではほとんど唯一の医療チームであった。そして、このことは私たちの一種の誇りでもあった。
 1998年4月、私たちが第1期15年の節目を置き、今後第2期30年の基地・PMS(ペシャワール会医療サービス)病院を苦心惨憺(さんたん)の末に建設したのは、私たちの活動の出発点に立ち戻る意図が込められていた。いまだ増え続けるハンセン病6000人の患者たちのケア、同病が多い山村無医地区の診療モデル確立を国境を越えて行うことである。しかし、7千万円の募金と2年の時を費やしたPMS病院建設は、初めからいばらの道となった。
 98年4月、盛大な仮開院式を終えたものの、建築業者とのトラブル続きで、旧病院からの移転がじりじり引き延ばされた。このままでは事業そのものが倒壊すると見た我々は、98年11月を期して一挙に移転を敢行、建築業者を追放して未完成の病院で診療を開始した。その経過は『医は国境を越えて』(石風社)に詳しい。幸い地元民の協力があって、完全に自前で建築を継続しながら、他方で組織再編に着手できた。
 だが、病院建設とは建物だけではない。人こそが石垣である。わけても私たちを悩まし続けたのは異なる人々の集団割拠であった。アフガン人とパキスタン人、イスラム教徒とキリスト教徒、異なる氏族・血縁集団、これらが幾重にも重なって複雑な対立を生み、彼らを束ねてゆくのは、覚悟はしていたものの、容易なことではなかったのである。これに加えて、印パ国境で軍事衝突あり、パキスタンの核実験あり、米国によるアフガニスタンへの巡航ミサイル攻撃あり、99年11月はパキスタンで軍事クーデターが起きるという有り様で、文字通り内外の騒然たる状況で事業は行われた。
 「国境を越えての協力」とは、誰もが納得する美しいスローガンである。しかし、身近になると誰もが土壇場で躊躇(ちゅうちょ)する。私が学んだのは、高い理想で結び合うより、共通の敵を仕立て上げる結束の方が、はるかに容易だという人間の病理である。これに自省のない驕(おご)りが加わると、手の付けようがない。事実、私たちが打ち出した新体制は、ことごとく無用な対立で妨害された。
 ここに至って私の忍耐も限界に達し、「たとい全員を解雇してもゼロから再び出発する」と非常事態を宣言、綱紀粛正を掲げて公私混同や怠業を厳しく取り締まり、悪役にされることを覚悟で臨み、夜は拳銃(けんじゅう)を枕に眠った。一応の診療秩序が回復、予算削滅にもかかわらず、年間診療数20万人の水準に復しつつある。他方で病院に適した人材養成を目的に、「医療助手養成コース」を正式に発足、意欲ある青年たちを集めて将来に備えている。
 長い道程ではある。しかし、私たちの対決するものは、現地でこそ極端な形で現れたが、実は普遍的な人間の病理であると思い当たる。
 日本とても他人事ではない。訳の分からぬ犯罪や、政治屋たちの猿芝居、幼稚な風俗を見聞きする毎に、将来に不安を抱く。Eメールが行き交い、ネットワークが張り巡らされ、世を挙げて情報化に忙しい。だが、伝達手段ばかりが徒(いたずら)に発達し、中身は手軽で薄っぺらになってゆく。問題が表層で捉えられて処理されるだけ、よけいに不気味である。
 この中にあって、私たちは安易に平和や国際協力を語らない。それは生身の人間の現実に肉迫することでしか得られないからだ。もし私たちが現地活動に何かの意義を見出すとすれば、そこに手ごたえのある「人間との対峙(たいじ)」と、確かな「人間の希望」を感ずるからなのだろう。

バーミヤン大仏を壊すのは誰か
2001年4月3日
 文化面への寄稿 バーミヤンの大仏を壊すのは誰か

 るような紺碧(こんぺき)の空とまばゆい雪の峰に囲まれるバーミヤン盆地は、不気味なほど静かだった。無数の石窟(せっくつ)中で、ひときわ大きく、右半身を留める巨大な大仏さまがすっくと立っておられる。何を思うて地上を見下ろしておられるのだろうか。

 3月19日朝、タリバンによる仏像の破壊が世界中で取りざたされる頃、私は現地にいた。カブールへの緊急医療支援を決定し、最も避難民が多かったバーミヤンへ医療活動の可能性を探りに来たのだった。
 戦乱だけでなく、この30年で最悪の旱魃(かんばつ)で、アフガニスタン国家が崩壊するか否かのせとぎわである。アフガン東部に三つの診療所を構える私たちは、直ちに事態を深刻に受け止め、医療団体にもかかわらず、飲料水源確保を緊急課題とした。以来この7カ月というもの、アフガン東部の旱魃地帯に展開して地元民と協力、必死の作業を続けてきた。3月現在、病院職員150人とは別に、水計画の職員・作業員670人、作業地429カ所。51カ村で約二十数万人の離村をかろうじて防ぐという、会が始まって以来、最大規模の活動となった。地域によっては、カナート(地下水路)多数を復旧、砂漠化を阻止し、難民化した全村民が帰るという奇跡をも生んだ。活動地は更に拡大を続けている。
 今年2月、ペシャワールの基地病院で難民患者が激増するに至り、「国外に難民を出さぬ活動」をめざし、首都カブールに診療活動を計画した。これは、既に一つのNGOとしての規模をはるかに超える。しかも、大半の外国NGOが撤退または活動を休止する中である。我々としては、「これで現地活動が壊滅するかも知れぬ」という危機感の中、組織の命運をかけて全力投球せざるを得なかったのである。
 およそこのような中での、国連制裁であり、仏跡破壊問題であった。旱魃にあえぐ人々にとって、これがどのように映っただろうか。仏跡問題が最も熱を帯びていた頃、手紙がアフガン人職員から届けられた。
 「遺憾です。職員一同、全イスラム教徒に代わって謝罪します。他人の信仰を冒涜(ぼうとく)するのはわれわれの気持ちではありません。日本がアフガン人を誤解せぬよう切望します」
 私は朝礼で彼らの厚意に応えた。
 「我々は非難の合唱に加わらない。餓死者100万人という中で、今議論をする暇はない。平和が日本の国是である。我々はその精神を守り、支援を続ける。そして、長い間には日本国民の誤解も解けるであろう。人類の文化、文明とは何か。考える機会を与えてくれた神に感謝する。真の『人類共通の文化遺産』とは、平和・相互扶助の精神である。それは我々の心の中に築かれるべきものだ」
 その数日後、バーミヤンで半身を留めた大仏を見たとき、何故かいたわしい姿が、ひとつの啓示を与えるようであった。「本当は誰が私を壊すのか」。その巌(いわお)の沈黙は、よし無数の岩石塊と成り果てても、全ての人間の愚かさを一身に背負って逝こうとする意志である。それが神々しく、騒々しい人の世に超然と、確かな何ものかを指し示しているようでもあった。 

破局を救うのは希望を共にする努力と祈り
2001年10月27日
 オピニオン面「私の視点」への寄稿
 10月7日、平和への願いを押し切って米国の「報復」が開始され、多くの市民たちが爆撃の犠牲になっている。そして2週間とたたないうちに、「タリバーン後」がとりざたされ始めた。しかし、現実は西部劇やゲームではない。私たちが知る現地の生々しい実情は、政治家や評論家が語る紙上の想像からは程遠い。決定的なカギをにぎる多数派パシュトゥン民族を始め、肝心の民衆の動向が紙面から見えてこないからだ。
 人々は餓死者100万という修羅場の中で、生き延びるのに精いっぱいなのだ。旧ソ連軍の精鋭10万人の大軍をもっても制圧できなかったアフガニスタンの広大な国土の9割が、兵力わずか2万人のタリバーン政権で支配され続けたのはなぜか。
 この事実の背後には、アフガン民衆自身が過去20年以上の内戦に疲れきり、平和と国家統一を求めていたことがある。彼らは、いわゆる「国際社会」に黙殺されながら、自らの生を防衛してきたというのが真相だ。
 すなわち、現在進行する構図をより大きな目で見れば、「近代文明を自負する国際社会」対「その枠内に収まりきれぬアジア伝統社会」との、かみ合わぬあつれきというべきであろう。確かなことは、これが何かの終極の初めであることだ。
 目先の景気対策や国際的発言力ではなく、私たちが自明のように使う「国際社会」とは何かを改めて問い、もう一度白紙から、人間としての一致点と、何を守るべきかを模索することこそ緊急事態のように思えてならない。

 戦局の展開や戦後処理の動きだけがいたずらに伝えられ、逃げまどう物言わぬ民の実態は伝えられない。ほとんどの人々は、難民にさえなれないのだ。
 図らずも今回の暴力的対決は、我々の誇るべき文明が、古代から変わらぬ野蛮と暗い敵意の上に張る薄い氷にすぎないことを実証した。平和の声を非現実論だと冷笑し、暴力とカネを拝跪(はいき)する風潮こそ戦慄(せんりつ)すべきである。
 敵は、実は我々自身の心の中にある。強い者は暴力に頼らない。最終的に破局を救うのは、人間として共有できる希望を共にする努力と祈りであろう。

日本の自殺の多さ、幸せとは何か考えさせる
2002年7月12日
 青森県八戸市での講演で
 30年くらい先を見ながら活動を続けたい。アフガニスタンに比べて日本は豊かだが、その日本で年間3万人の自殺者が出る。人間の幸せとは何か、社会のあるべき姿とはなにか、考えさせられる。
2003年7月30、31日
 アジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞の「平和・国際理解部門」を受賞しての会見とインタビューで

潅漑用水路の起工式で話す中村哲さん=2003年3月、アフガニスタン・ダラエヌール村近くで

 アジアの同胞からの熱い評価として感激しています。現地職員や20年間支えてくれたペシャワール会員らの良心の結晶へ与えられたと理解している。
 国籍や民族、宗教、近代化と伝統社会のあつれきを乗り越えた活動は、多様なアジア世界で、相互の差異を認め合いながら人として協働する、未来のあるべき姿を学ばせてくれた。暴力は解決にならない。私たちの小さな努力が、既成の立場や先入観を超え、共生と融和の新しい時代を切り開く、一つの捨て石となることを祈りたい。

アフガンに寄り添った中村哲医師の素顔
憲法九条を胸に井戸を掘り、宮沢賢治を愛した友を悼む

 アフガニスタンで長く人道支援を続けるNGO「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表で、医師の中村哲さん(73)が4日、アフガニスタン東部で進めている灌漑工事の現場に向かう途中、銃撃され、亡くなった。国内外に深い悲しみが広がっている。
 
 中村さんは1984年にパキスタンに赴任して現地の人々の医療にあたり、86年にはアフガニスタンでも活動を開始。大干ばつに襲われた土地で、命を救うための水と食糧を確保するために、井戸掘りや用水路造りなどに取り組んできた。会が掘った井戸は約1600本、1万6500ヘクタールの農地をよみがえらせ、15万人の難民が故郷に帰ることができたと推定されている。

 中村さんと長く、深い親交のあった絵本作家の長野ヒデ子さんに、その人柄と、宮沢賢治好きだったという素顔を語ってもらった。(構成・山口宏子)
初めは軽口で送り出した

パキスタンでの中村哲さん(中央)=ペシャワール会提供

 中村さんとの出会いは、40年以上前、夫の転勤で福岡に引っ越した時でした。
 私は無教会派のクリスチャンの家庭集会で、九州大学医学部の学部長を務めた問田直幹先生と知り合いました。問田先生の周りには、教え子ら若い医師が何人も集まっていて、中村さんはその中の一人でした。
 中村さんがパキスタンやアフガニスタンに関心を持ったのは、九州大学の人たちが中心になった登山隊に医師として参加したことがきっかけだと聞いています。子供のころから昆虫好きで、登山隊に加わった動機は、山で珍しい虫を見たかったからだということですが、現地の実情を目にして、医療支援を思い立ち、動き始めました。
 初めて赴任する時、仲間の医師たちは、「シュバイツァーの真似をするつもりか」「すぐ帰ってくるだろう」などと軽口をたたきながら、送り出しました。
 でも、中村さんは長期の活動を決意していました。それを支援するために、1983年にペシャワール会ができ、初代の会長には問田先生が就任しました。私も発足当初からの会員です。後に中村さんは、いろいろな所で「どうしてペシャワールの支援を始めたのか」と尋ねられました。その度に「たまたま出あったから」と答えていました。
 中村さんを支えようと、福岡の出版社「石風社」の代表で、いまはペシャワール会の広報担当理事をしている福元満治さんら、多くの人が立ち上がりました。もちろん、活動に賛同してのことですが、中村さんの人柄の魅力も大きかったと思います。ひょうひょうとしていながら、人を引きつける強い力があったのです。
 一方、優れた編集者である福元さんと出会ったことで、中村さんの内なる力が大きく引き出され、『医者 井戸を掘る』など、すばらしい著作が数多く生まれています。福元さんは名編集者で、私のデビュー作『とうさんかあさん』を世に出してくれたのも彼でした。

相手に寄りそう、人にも自然にも

甲府市で講演する中村哲さん=2019年8月31日、山梨英和学院提供

 中村さんの魅力とは――。
 何度も講演会に行きましたが、「ああ、すごい人だなあ」と感じることがよくありました。
 それは、会場から、中村さんとは異なる意見が出た時です。
 そういう時、中村さんは相手の意見を否定したり、間違いを指摘したりしません。中には激しい調子で批判する人もいますが、決して強く反論はしないのです。
 「あなたの言うことも、もっともです。この質問をしてくれてよかった」と、まず、相手の考えを全面的に受け入れる。そして、静かに、穏やかに、言葉を選びながら相手に納得してもらえるよう、語りかける。そうやって相手を説得してゆく。なかなか、できることではありません。
 ある講演会では「アフガニスタンでは、イスラム教の女性はブルカという布で全身を覆っている。女性の人権を無視した行為だ。そういう社会を支援することには疑問がある」という批判の声があがりました。
 中村さんは、こんなふうに応じました。
 「確かに、女性の人権について考えなければいけないことはたくさんあります。ただ、日本でも、外からは夫が主導権を持っているように見えても、実際に力を持って動かしているのは妻だという家庭はたくさんありますよね」と笑いを誘いながら、「自分たちとは違う社会のあり方を理解しながら、実情を見ることも大事ではないでしょうか」と考えることを促しました。
 こんな場面も印象に残っています。
 遠くに銃撃の音が聞こえる場所で、子供たちがわらべうたを歌いながら遊んでいる様子を話してくれたことです。現地の日常の風景。過酷な状況ではあるけれど、その中にほのぼのとした時間があり、ごく普通の生活がある。大きな事業をしながら、そうしたささやかなくらしのひとこまにも目を向け、日本にいる私たちに伝えてくれた。
 それは大きなメッセージだったと思います。

「裏切り返さない誠実さが人を動かす」

アフガン人留学生に筑後川や山田堰について説明する中村哲医師=福岡県朝倉市、2016年

 現地の人に寄り添う姿勢は一貫していましたが、用水路を掘るなどの事業にも、その考えは反映されていました。

工事用車両に乗る中村哲さん=ペシャワール会提供
 土木工事といってもコンクリートで固めるのではなく、将来、現地の人たちの手で維持や修理ができるようにと、できるだけ地元の素材を使い、自然と折り合いをつけながら進めていると聞きました。福岡県朝倉市の山田堰を参考にして、蛇籠(円筒形に編んだかごに石を詰めたもの)などを使う工法を活用し、「川にだって意志も『人権』もあるんだから、それには逆らわない」と話していました。

 これは、福元さんに聞いた話ですが、現地での中村さんは、工事用の重機を操って、生き生きとうれしそうに働いていたそうです。中村さんの父方の親類に、土建業を営む豪快なおばさんがいて、「その血かな。重機に乗ると、うれしいんだ」と無邪気に笑いながら話してくれたこともあります。
 中村さんの話に力があったのは、現地での体験から出た言葉だったからでしょう。自分自身の体で受け止め、その体を通して言葉が語られる。その言葉には目に見えない「気」のようなものがあり、聞き手の心により強く響きました。
 「裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々を動かすことができる」
 よく、そう口にしていました。
 まるで聖書に書かれているような文句ですが、長い間、様々な苦労をしながら活動していた中村さんから聞くと、改めて、その言葉の深い意味を感じます。
 2001年。9・11同時多発テロへの報復として、アメリカによるアフガニスタンへの攻撃が始まりそうだったころ、中村さんは現地の実情から、それがいかに危険なことであるかと発言していました。
 日本が軍事力を行使しない国であるから現地の人たちの信頼を得ているのだと考え、「憲法9条があるから、私たちは活動できる」とも繰り返し語っていました。
2001年10月13日
衆院テロ対策特別措置法案を審議する衆院特別委員会での参考人としての発言
(朝日新聞記事より抜粋)

 中村医師は「現地で何が起きているか、事実を伝えたい」と切り出した。長年の内戦、干ばつ、そして今回の「原因がよくわからない報復爆撃」で、アフガニスタンは「痛めに痛めつけられている」と訴える。「今支援しなければこの冬、カブール市民の1割が餓死する。難民が(国外に)出てからでは悲劇が大きくなる。まず難民を出さない努力を」と力を込め、「こうした現実を無視して、議論が進んでいる」と危ぐを表明した。

 アフガンの人々は非常に親日的だが、軍事行為を支援すれば日本への信頼が損なわれるとして、「自衛隊派遣は有害無益」と批判。パキスタンなどで想定される自衛隊の難民支援も、言葉の壁や治安状況から「役に立たない」と指摘した。

 「有害無益」発言には自民の委員が「取り消しを」と色をなす場面も。「日本として何が最善か」との問いに、中村医師は「平和回復後の建設的事業で、他の国にはできない貢献ができるはずだ」と答えた。

井上ひさしさんと出会い、宮澤賢治を語る
 転勤族だった我が家はその後、神奈川県鎌倉市に転居しました。引っ越した先が作家・劇作家の井上ひさしさん・ユリさん夫妻の家の近くで、親しくなりました。
 雑談の中で、井上夫妻が「アフガニスタンについては、中村さんというお医者さんの発言が信頼できる」と言ったので、「中村さんなら旧知の仲。鎌倉に来てもらいましょう」ということになり、2001年11月に緊急報告会を開きました。
 井上ひさしさんを聞き手に、中村さんは「現地スタッフから、北部同盟のカブール進攻と同時にパシュトゥン人に対する迫害も始まった。路上に300人を超える首がさらされていたという報告があった」「自衛隊が参加したことで、日本に失望した人が多い」といった話をしてくれました。
 ユーモアを交えながら、大事な真実と深い考えを伝えるのが、中村さんのいつものスタイルです。この日も厳しい現実を、心に届く言葉で語りました。

滋賀県での宮澤賢治をめぐるセミナーで語る(左から)井上ひさしさん、才津原哲弘さん、中村哲さん=2004年、長野ヒデ子さん提供
 聴衆が大勢詰めかけ、舞台の上まで座っても会場に入りきらず、別室で音声だけ聞いた人もたくさんいました。大変な熱気だったことを覚えています。

 

鎌倉ではその後も2回、円覚寺の塔頭(たっちゅう)で講演をしてくれました。お寺の静けさが心地よいと、ほっとした表情を見せ、近くのお店のいなりずしをおいしそうに食べていた顔が心に残っています。
 2004年5月には滋賀県能登川町(現・東近江市)で開催された宮澤賢治学会イーハトーブセンター・地方セミナーとして、中村さんと井上さんの講演と対談が催されました。催しを主管した当時の能登川町立図書館の館長、才津原(さいつはら)哲弘さんは、福岡時代のご近所でした。こうした縁がつながっていったのです。
 「辺境で診る 辺境から見る」と題されたこのセミナーについて、才津原さんは「天空からの贈りもの」と題して、次のような報告を記している(宮澤賢治学会イーハトーブセンター会報、2004年9月22日発行)。

 

中村さんはスライドを見せながら、「貧しいから不幸せではない」「20年間をふりかえりまして、人助けというつもりはないではなかったが、助かってきたのは自分たちの方なのだ」などと語った。予定の30分が過ぎても、会場の人が耳をそばだてる話が続いていく。「賢治と哲」と題する講演をするはずだった井上さんは、「中村さんのお話を30分で理解するというのは無理。詳しく聞いたら涙が出ます」と急きょ聞き手に回り、「なぜ医者がサンダルづくりや、井戸掘りをするのか」「なぜ今、重機を操っているのか」など、宮沢賢治の生き方にもつながる中村さんの活動を掘り下げていった。参加者のだれもが「静かな元気」をお二人から手渡されて、それぞれの現場に帰った。

 才津原さんは、中村さんと福岡の同じ中学の出身で、クラスは違ったが同学年だったという。
 中村さんは宮澤賢治が好きでした。
 「いつも忙しくて、なかなかゆっくり読書する時間がないのだけれど、賢治の本はよく手にとる」と言っていました。
 アフガニスタンで、賢治の詩や物語を思いながら、星を見たり、風を感じたりする時、「救われた気持ちになる」のだそうです。
 中村さんは、力強い行動の人でした。そして文学的な人でもあったのです。

アフガニスタン東部、かつては「死の谷」と呼ばれていた砂漠が、用水路によって緑に=2015年7月、ペシャワール会提供

http://www.kenpoukaigi.gr.jp/saikin-news/191205-04-1.pdf

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