韓日米のフェミニズム③



(ユン)健次(コンチャ)の『思想体験の交錯』2008 p399-403から始める。「女性国際戦犯法廷の判決はジェンダーの視点に貫かれたものだというとき、日本のジェンダー思想がポストコロニアリズム(脱植民地主義)と関わりをもつものであったことが分かる。ただ私の見たところ、その後、日本のジェンダー思想がポストコロニアリズムの課題を深く議論していったかどうかは疑問である。

その点では、韓国のジェンダー思想がより真剣にポストコロニアリズムの課題に挑戦していったといえる、というよりは、韓国フェミニズムの理論研究ないし運動自体、最初から社会に根づいたままの植民地性と格闘する使命を帯びたものであり、その流れのなかで新たに受容されはじめたジェンダー思想も、植民地支配の残滓を生産することに大きな力点をおくものとなった」

とここまでの指摘は概ね首肯できよう。ただ少しだけ保留しておきたいのは「日本のジェンダー思想がポストコロニアリズムの課題を深く議論して来なかったかという点。これは後日また述べる。

続けて「その場合、韓国では『ジェンダーは民族主義を乗り越えられるか』という言葉に象徴されるように、韓国近現代史を貫通する民族主義と対決する思想として少なからず位置づけられるようになったと言える」。ここなのである「ジェンダーは民族主義を乗り越えられるかという言葉」を「韓国近現代史を貫通する民族主義と対決する思想として」位置づけてしまう点である。

さらに続けて尹は言う。「その代表的な著作はアメリカの大学に在籍する韓国人女性が主に分担執筆した『危険な女性――ジェンダーと韓国の民族主義』(サミン、二〇〇一年)である」。この書は韓国と米国と同時発売となったことでも有名だ。

「その核心的な論点は、韓国の民族主義は、実際には帝国主義と共謀して韓国女性を抑圧し、性搾取/支配を持続させる内部の構造を隠蔽するのに大きな役割を果たしたということである。西欧諸国が自身を男性性で構築して非西欧を女性として他者化したように、植民地男性もそうした帝国主義的男性性を内面化することによって、民族を防御する一方、植民地女性を抑圧する。

しかも植民地男性は自身の男性性をまともに守れないことからくる怒りを女性に投射する。つまり女性は民族的殉教ないしは羞恥の象徴として隠喩されながら、植民地男性の自尊心を刺激することになる。そこからも、この『危険な女性』は、植民地主義/民族主義運動のなかで作り出されてきた、巧妙な差別と排除の韓国的メカニズムに対する解剖学である(『ハンギョレ21』第三八九号、二〇〇一・一二・二七)と」。

以上、「ハンギョレ」の(大雑把な)摘要に依拠して『危険な女性』の論的を指摘したあと、尹は語る。「まことに厳しい主張であるが、私自身はこうした意見に一部納得できても、ジェンダーと民族主義ないしナショナリズムを対立構造のなかでのみ見ようとすることには賛成できない。

日本軍性奴隷(「慰安婦」)の問題を考えるのに、こうした主張が部分的に当てはまるとしても、植民地支配、軍事独裁支配、日本の排外的差別などと身をもって闘ってきた韓国(朝鮮)および在日の女性が民族主義と敵対的な関係だったとはとても思えないからである」。

まず『危険な女性』が民族主義と対決する思想を語るものであったとしてもそれは韓国(朝鮮)のナショナリズムに巣食う度し難い女性の抑圧構造に対してなのであり、けっして「対立構造」を唱えるものではないことだ。端的に言えば韓国(朝鮮)のナショナリズムをフェミニズムの視点から読み直そうとするものなのである。

尹は両者フェミニズムと民族主義とを「対立構造のなかで見ようとする」ものと規定し、そのことだけに注目し、そしてそれを否定する。しかし根底からずれていないか。ここにもフェミニズムを否定せんがために自身に都合の好いように『危険な女性』の思想を意識的にずらしてしまう現象を見ることができよう。

実際に英語版”Dangerous Women”1998)を見てみると、編者の一人であるElaine H. Kimの論文(第四章)“Men’s Talk: A Korean American View of South Korean Constructions of Women, Gender and Masculinity”だけをとっても、そこでは韓国に散在する米軍基地の周辺の性産業に対する批判、植民地支配下において強制的に集められたにしろ、米国の新植民地状態の中で経済的事情から新たに就業させられることになったにしろ、韓国人女性が韓国と日本ないし米国との管理下で身体的にかつ経済的に搾取され抑圧されていることが問題となっている。

もう一人の編者Chungmoo Choiは第二章で、韓国の文化的産物の多くが、女性の貞操や純潔と男性のhyper-masculinity(超男性性)をセットにしていること、また女性の身体が、白人女性の身体を特権化した大都市の男性の視線に提供されていることを論じている。

このように『危険な女性』の論点は単にナショナリズムとフェミニズムとを「対立構造のなかでみようとする」単純な視点にあるのではなく、韓国のナショナリズムが抱え持つ女性に対する抑圧や差別を社会的歴史的な相の下で明示化し、あるいは男性の masculism(マスキュリズム)(男性中心主義:フェミニズムの対義語)が日本による植民地時代からいかにナショナリズムを口実に女性を周辺に追いやって来たかを、帝国主義や資本主義そして米国による新植民地主義、さらには文化や都市化との関わりの中で分析することにある。

尹は大著の中でフェミニストたちの運動についてわずか数ページしか割()かず、しかも否定的にしか論じないところに男性のフェミニズムに対する神経症的語りの兆候を読むのは誤っているだろうか。金石範と尹健次の作品については単行本化されたものはほとんど読んでいるし、その業績に対する敬意は言うまでもないことは断っておく。彼らの業績や思想に敬意は抱くのは言うまでもないとして、しかしフェミニズムの視点の欠如(でなければ低評価)に目を向けたいのである。

『危険な女性』と同じ立場に立つ金富子は、1990年代の韓国で「慰安婦問題」が浮上したとき、「ジェンダーや階級の視点を内包しながら民族支配の一環としての性搾取制度である植民地公娼制度を批判した当時のナショナリズムは正当であったにせよ、その民族主義的な言説それ自体が在来社会の男性中心的『性倫理』を前提に女性排除的に構築されていた点は免れえない」と『継続する植民地主義』で述べたあと、以下のようにまとめている。

「重要なことは、「慰安婦」問題や公娼制度を、ナショナリズム、階級、ジェンダーなどによるそれぞれ一元的な分析や、あるいは「民族/ジェンダー」などという二項対立的な視点・認識枠組みに回収されずに、「主体を様々な権力関係の交錯する場として複合的にとらえる」「批判的フェミニズムの視点」に立つことであり、それら相互の輻輳性のありようを具体的に分析して提示することである。p183

『危険な女性』も『継続する植民地主義』の副題「ジェンダー/民族/人種/階級」の示すように、ジェンダーと民族主義の二項対立だけではなく、「人種」や「階級」すなわち資本主義、そして社会や文化形態との関わりにも踏み込んでいるのは、KimChoiの論文を見るだけでも容易に察せられ、二一世紀のフェミニズムの業績を少しでも齧るなら現代のフェミニズムの志向するところが容易に理解できるだろう。

最後に活字化された『読む、時代を?』ではあえて割愛した記述がある。尹は『危険な女性』を批判するに「ハンギョレ」の述べるところの梗概に依拠しているのだけれも、これは「学者」としてはNGなのである。要約は自分でするべきで、他者の要約に従って論評するなどもってのほか、本当に尹は『危険な女性』をちゃんと読んだのか、という非難も避けられないだろう。

さてこの韓米同時発売の書がどうして日本語に訳されないままなのか。日本のフェミニストたちの誰か、訳して欲しいなぁというのが市井の読者人の素朴な願いである。






話はそれるようだがジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』1990はどう語っているか。

そもそも「セックス」とはいったい何だろうか。それは自然なのか、解剖学上のものなのか、染色体なのか、ホルモンなのか。(中略)セックスの自然な事実のように見えているものは、じつはそれとはべつの政治的、社会的な利害に寄与するために、さまざまな科学的言説によって言説上、作り上げられたものにすぎないのではないか。(中略)おそらく「セックス」と呼ばれるこの構築物こそ、ジェンダーと同様に、社会的に構築されたものである。実際おそらくセックスは、つねにジェンダーなのだ」 p 28-29

これまでの常識では、またフェミニズムの歴史においても、解剖学的な「セックス(性)」というのは自明のもので疑いを容れない本質的なものとして捉えられ、その上にジェンダー(男/女あるいは女らしさ/男らしさなど)があるとされてきたが、バトラーはそれを革命的に転換する。「実際おそらくセックスは、つねにジェンダーなのだ」と。ジェンダーを自然なもの当然のものとして主張する根拠としてこれまで持ち出されて来たのが解剖学的な「セックス(性)」であったが、その解剖学的な「セックス(性)」も「自然な事実」ではなく、「社会的に構築されたもの」なのだと主張する。「セックス(性)」はつねにすでにジェンダー化されている。この書は、同性愛者などの〈性的マイノリティ〉を思想的に位置づけることで、フェミニズムを女性の権利拡張から〈性的マイノリティ〉の権利主張へと拡張し、その後のLGBTQ(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー・クイア。クイアとは変態の意。差別用語であるこの語を、そう名指される人たちが逆にその意義を戦略的本質主義として強調することでその逆転を図ったのだ。)の運動への道をも開くことになった。こうしてフェミニズムは今や世界のあらゆる性的マイノリティの権利を擁護しそのために闘う思想へと転換変貌したと言えよう。彼女はその後、主体が立ち上げられる際にどのように〈性的な主体〉となるかを、主にフーコーを論じつつ思考している。



フェミニズム。それは単に女性(煩わしいので〈 〉をいちいちつけないが、女性や男性という語を実体論的、本質主義的な意味で用いていないことを了承されたい)の権利拡張や男女平等を謳うだけの主張では、ましてや女性に固有のものでもない。人権の思想であることの意味は、〈性別〉を問わず(いや問うべきなのは性の二分割、二項対立という伝統的ないしは近代的な分類なのだが)現代の人間に必須の倫理の思想であることを意味する。ポスト・フェミニズムの時代と呼ばれる二一世紀の現代にあって、ひとまずは性にまつわるあらゆる権力構造を剔抉(てっけつ)し批判するものであり、具体的にはジェンダー、セクシュアリティ、リプロダクションといった三つの領野の権力構造を問題化するものであると言えよう(大越愛子『フェミニズム入門』ちくま新書1996を参照されたい。ちなみに彼女は「日本の文化の中に構造化されている女性蔑視体制を反映している」のが「慰安婦」という表象であり、「強姦を和姦にすり替え」ており、「慰安」の語が「男性が女性を強姦するんだけれども」「男性の弱さが女性の肉体、身体での慰安を要求して、それに包み込まれることで、ようやく男性が救われるという物語にすり替えられ」ていて、それこそが「日本仏教の性的救済の構図」だと指摘している。『現代思想』一九九七年九月号vol.25-10「ジエンダーと戦争責任」)。リプロダクションとは再生産つまり出産や生殖のこと、女性の身体を女性のものとして産む産まないを決めるのは当事者としての女性の権利に属すると主張することであり、他者の容喙(ようかい)するべきものではないことを言うばかりか、さらには産む性として女性を表現し強調することは産まない女性や産めない女性、さらには同性婚の否定・抑圧につながることを顕在化させるのだ。ジェンダー概念によって、女性や男性という存在が決して生来のものではなく、後天的に構築されるものであり、〈性自認〉が生物的ないし解剖学的性とことなることもあるのが明らかになる。トランスジェンダーとは、例えば解剖学的性では女性であっても男性であると〈性自認〉する者のことであり、その逆も然り。トランスジェンダーと対になるトランスではない男女をシスジェンダーと呼ぶ。trans(向こうに)に対するcis(こちらに)である。セクシュアリティはゲイつまり同性愛とかに顕著な性的(セクシャル)指向(オリエンテーション)の問題であり、性愛の対象として異性を選ぶか同性を選ぶかの問題を焦点化するものだ。MTFMale to Female男性から女性へのトランスジェンダー)やFTM(女性から男性へ)が男性を性的指向の対象として選ぶとき、これは異性愛なのか同性愛なのか。いや異性愛と同性愛という二分法で人間の性愛を把握すること自体の無効化が、男/女の二項対立的思考の無効化同様に露わにならないだろうか。
 強固な性別二元論の社会体制ということでは、履歴書をはじめあらゆる身分証明の欄に「性別」の項があり、それはFaceBookの登録にさえついて回るのだけれども、アメリカの履歴書では以下の項目の情報を含めてはならないとされる。① 写真、② 生年月日、③ 家族構成、④ 性別は不要であり、これらを雇用者が採用の基準にするのは違法である(もちろんこのような情報について面接で話題にするのもご法度である)とされている。写真は人種(白人か、ヒスパニック系か、アフリカ系など)を顕わに示すし、年齢については日本では相変わらず募集要項に「六〇歳くらいまで」とか、年齢差別が平然と行われている。採用されるのは個人であり、家族は関係ないというのは常識であろうけれども、④の「性別」は日本ではまだまだ性別を問うのが一般的であるのは、人権後進国と言われる所以であるだろう。日本の履歴書はせいぜい③の「家族構成」をクリアしているだけで、他の情報はいまだに必須とされているのは驚くべきことなのではないだろうか。