日本人と日本文化❓
日本文化とはどのようなものなのか?
近代以前の日常であった、例えば畳(これも比較的新しく、江戸中期以降らしい)の部屋は最近のマンションでは消えつつあるし、正座を10分も出来ないのが現代人。
学校で習う美術、まさか毛筆で鉄斎のごとき山水画を描くことはないだろうし、音楽はオルガン・ピアノであっても琴や三味線で清元や常磐津でもあるまい。
源氏物語を読むのは大抵現代語訳ないしはコミックの「あさきゆめみし」、原文で読むとしても活字印刷のそれ、変体仮名で書かれた写本を繙くのは専門家だけ。
箸は東アジア全体のものだし、日本に「日本文化」と呼べるような〈固有の〉文化なんてあるんだろうか?
そりゃ地方(この語も問題ありだけど)へ行けば昔ながらの畳に布団を敷いて寝ている人たちもいるかも知れないけど、大抵はベッド生活。
自分の生活を省みて、「日本文化」のほとんどないのに驚かされる。せいぜい日本語を使ってるくらいかな。(『創られた伝統』や『創造された古典』を参照されたい)
でもね、その日本語なるものも近代の産物、江戸には、酒井直樹の『過去の声』を読むと実に多様な「日本語」が存在したらしい。
中央集権的な維新政府は、仙台藩士と薩摩藩士の間では会話が成立しないため(謡の言葉で会話したとどこかで読んだ)共通語としての「日本語」を作り出す必要に迫られていた。
それが有名な「言文一致」の運動である。この辺りの事情はイ ヨンスク『国語の思想』や柄谷行人の『日本近代文学の起源』に詳しい。
つまり1868年に始まる近代の「日本」国家、国民国家=ネーション・ステートに求められたのは、共通の日本語であり、そして何よりも「日本人」の創造だったのだ。
10年以上前になるけど、「爆問」というNHKの番組でゲストの子安宣邦が、前近代には「日本人」は存在しないと言ったけど、頭が硬いのか太田光は番組の最後までそのことを理解しないから、子安は苦笑を隠すしかないようだった。
考えてみればすぐにわかるはずなんだけど、江戸時代に「自分は日本人だ」なんて自己意識を持つ者などいなかった。「自分は○○村の百姓だ」「○○藩の藩士だ」くらいが関の山。だって中央集権の統一国家としての「日本」など存在してないんだから。
「同じ日本語を話す同じ日本人」という意識は国民国家が創り出したものなのだ。日本で初めての辞書大槻文彦の『言海』の初版には「民族」という語すら登記されていなかった。「民族」も近代の産物。
リービ英雄というアメリカ国籍の作家がいて、彼は万葉集の全訳を英語で行い全米図書館賞だったかを貰った学者。彼はもちろん流暢に日本語を話し古典にも詳しい上に芥川賞候補になる小説を書いている。
もし日本語や日本文化を生きるのが「日本人」だとすれば彼ほど優れた日本人はいまい。けれども彼は金髪で青い目のアメリカ人なのだ。畳が大好きでマンションの廊下にまで畳を敷いていると語ってくれた時には笑い出したけど。
日本人はどこにいったのか?
歴史家のホムズボームは確かに「プレ○○人」はいた、一定の地域に同じような習慣を持ち似たような言語を話す人たちがいて、後に国民国家の住人となるような集団もあるにはあったが、それは国民国家の市民とは同じではないと述べる。
歴史学という学問も近代の産物、帝国大学の学問であった。日本史なんてのは本当に罪深いと思う。弥生や縄文とか、その時代からあたかも一貫して「日本人」が存在したかのような錯覚を子どもたちに植え付けるんだから。(アンダーソン『想像の共同体』参照)
そこで思い出したのは「日本人のDNA」とか「日本人の血」という表現。DNAは個人というか個体のものであり集団のDNAなど存在しないし、他と異なる固有の「日本人の血」も存在しない。
「日本人」が想像の産物なんだから「日本人のDNA」も「日本人の血」も存在するはずがない。
考えて見れば、飛行機事故で「日本人が亡くなりました」と報道があれば、「同じ日本人が亡くなった」とさまざまな感情を抱くのだろうけれども、その日本人を知らないことはアフガン人の誰それと同じだ。
なのに「同じ」(実はぜんぜん同じではないんだけど)日本人と思うという心理システムこそが国民国家なる装置の創造したものなのだ。
「日本人の死亡者はいなかったようです」という報道も残酷なもので、在日外国人はこの「日本人」に含まれない。「日本人」「日本人」と連呼するのを聞かされ、私たちはいつのまにか「同じ日本人」として創られていくのだ。
この「同じ日本人」を創り出す装置の1つが「外国人」。違う「外国人」がいて初めて「同じ日本人」が成立する。もし火星人が攻めてくれば私たちは「同じ地球人」として戦うのだろう。違う外部が同じ内部を構成する。これを〈構成的外部〉という。
このnoteで書きたかったのは、大和民族や日本人や日本文化などといった概念は素朴に信じてならないこと、まず私たちの日常の言葉や概念を疑ってかかること。ましてやDNAや血などという比喩に惑わされないこと。
言葉が私たちを構成する。「私」は言葉の産物なのだから、言葉は慎重に使いたい。私たちは学校という装置によって言語的に飼い慣らされ来た。学校が施す言語の習得を競うように飼育されたのだ。
スピヴァクはunlearnと言った。学び直すとか訳され語。学校は必要であるが必要悪でもある。だから習得した言語を鍛え直して闘いの武器とするのだと彼女は言いたいらしい。
この言語の問題についてはもう少し継続して書いておきたい。次回以降に。
今日はこれでおやすみなさい🌙。