平成元年入社リクルート人をたどる vol.1

平成の終わりももう間近。そのひとつの時代にあって、こと、”働く“にまつわる環境や認識は、驚くほどの変化を遂げました。
そんな変化の「へ」の字もなかった時に、今まさに働き方テーマとして掲げられる「副業」から人生を切り拓いていった方がいました。記念すべき第1弾では、その挑戦の軌跡を紹介していきます。

希望とは全く別の制作への配属…。道を開いたのは、強烈な失敗経験から生まれたスタンス 

僕がリクルートを卒業したのは2005年。40歳を目前にしての決断でした。
卒業してすぐに、今の会社、インサイトコミュニケーションズを立ち上げています。

独立を考える一つのきっかけとなったのは、個人事業主として始めた「副業」。
今でこそ当たり前の風潮が強くなってきていますが、当時はリクルートと言えど副業をしている人はあまりいなかったですね。
僕の場合は、人生をかける意味をもつお話だったので、僕の中での回答が「YES」以外ありませんでした。

平成元年にリクルートに新卒入社。営業希望で入社をしたのですが、予想に反して制作に配属されたんです。周りは美大や芸大出身の人が多い中、一人だけゴリゴリの体育会出身(笑)。ぶっちゃけ「マジかよ…」と思いました。でも、体育会で培ってきた負けず嫌いが功を奏して、「配属されたならやってやろう」と決意します。

僕は大学時代から、何かを成し遂げる時にいつも意識することがあります。それは「成功する人の共通点を見つけ、徹底的にまねること」。甲子園を夢見ていた高校野球での痛烈な失敗経験から身に沁み込んでいるスタンスです。

僕は、プロになりたくて小学3年生の時から野球に打ち込んできました。中高時代は、手に血豆ができるほど素振りをしたり、走り込んだり、筋トレしたり、がむしゃらに運動することが「正」だと思っていました。日々の「運動量」はとにかくすごいから、体育祭の1000メートル走で、陸上部の選手にも負けないほど(笑)。
ところが、夢の集大成のはずだった高校3年の最後の夏の大会で悪夢が起こります。1回戦で、なんとノーヒットノーランで負けたんです。その時は呆然としましたね。あんなに練習したのにこの結果…。思い描いていた人生が全て打ち砕かれた感覚でした。

学校にも行きたくないくらい落ち込み続けましたが、しばらくして何がいけなかったのだろうと思うようになり、家にあった野球の本を改めて手に取り始めました。
そこでやっと気づき始めたんです。「俺はもしかして、下手を定着させるための練習をしていたんじゃないか」「野球であんなに1日10キロとか走る必要はなかったんだな」「がむしゃらにやることがうまくなる方法ではない」と。
大後悔と同時に、「上達する」ためには上達する方法を身につけなければダメだとノーヒットノーランの敗戦から学ぶことになったのです。

だから、リクルートの制作で「やってやろう」と決めた時も、最も実力がある人は誰なのかをまず探しました。それが直属のマネジャーだったTさん。調べてみるとあの作品もこの作品もTさんの仕事だと知り、すぐに「Tさんみたいになりたい。日本一になりたいからどうしたいいですか」と相談しました。Tさんの回答は「紫垣、それは単純だよ。日本一になりたいんだったら、日本一仕事しろ」。
いま考えれば、Tさんに仕事をたくさんするように上手いこと乗せられたような気もしますが(笑)、当時の僕は「仕事量で一番になることで実力も日本一になれるなら、制作の誰よりも気合も体力も俺が一番入ってる!だから俺はなれる!」と勢いづきました。

とにかく誰よりも仕事をし、社内・社外を問わず優れたクリエイターのスキルを吸収し続けました。日々の成長の実感は僕をますますクリエイティブの仕事にのめり込ませ、9年目にコピーライティング業界で最も権威のある東京コピーライターズクラブ最高新人賞を受賞。

この受賞が僕の新たな人生の道を開くきっかけになったのです。

「やります」思わず口から出た一言が、人生を大きく動かした 

学生時代はずっと野球をやってきたのですが、社会人になってからの趣味はもっぱらゴルフ。なので、その東京コピーライターズクラブ最高新人賞をいただいた際のパーティでのスピーチで、「紫垣と言います。リクルートでこんな仕事をやっていて、趣味はゴルフです…」みたいに気軽な自己紹介のネタとして触れました。
そうしたら、それを聞いていた広告業界の大御所コピーライターの方に「広告業界のメンバーでやっているゴルフ会があるから、今度ぜひいらっしゃいよ」とお声がけいただきました。

正直に言うと、最初は「ちょっと面倒なことになったな」と(笑)。
当時、僕がまだ30代前半だったのに対し、そのゴルフ会の主要メンバーはほぼ50代60代の広告業界の重鎮ばかり。もちろん僕が一番下っ端ですから、日程の調整に車や食事の手配など、雑用を全部やらなければなりません。携帯なんて無い時代ですから、FAXや郵送で連絡をとりあってね。
でも、周りがそんな年齢の方ばっかりですし、僕は結構、飛距離も出るほうなんで、その中ではゴルフに関しては上手かったわけですよ。そうすると、広告業界の重鎮の皆さんの中で「紫垣っていうゴルフの上手いのがいるらしい」って可愛がられるように。本業のコピーライティングの腕は置いといて、そっちでばかり有名になっちゃったんですよね(笑)。

時を同じくして、ゴルフ界では大きなニュースが入ります。それが、世界的に有名なスポーツブランドN社のゴルフクラブへの参入。
ちょうどタイガーウッズが全盛期、日本でもものすごく盛り上がりを見せ始めていた時。イチゴルファーとして、僕自身も「ついにN社がきたか!タイガーはどんなクラブを使うのだろう」と、とてもワクワクしていたのを覚えています。

プロダクトの良さももちろんながら、スポーツブランドとしてファンが多いN。ブランディングは外資系のトップクリエイティブエージェンシーが長年深く入り込んで担当されていました。
そして、日本でのゴルフクラブのブランディングに進出するにあたって、アートディレクションは広告デザインの第一人者である副田高行さんを起用することが決まっていました。
しかし、アスリートの気持ちがわかり、ゴルフがわかるコピーライターがいない。東京コピーライターズクラブのメンバーにもお声がかかったそうなんですが、みなさん競合ブランドを担当されていたりと、受けるのが難しかったらしいんですね。そこで、副田さんが「あのゴルフ会にきてる紫垣くん、いいんじゃない」と言ってくれたんです。

クリエイティブディレクターから会社に電話がかかってきた時のことは忘れられません。
「Nのゴルフなんですけど、コピーライティングは紫垣さんがいいんじゃないかって副田さんもおっしゃってまして。ええ、タイガーの使うクラブです」と。もうびっくりですよね。「え?Nですか?Nのゴルフですか?…やります!」って、気づいたら答えていました。

実は賞をいただいてから、他にも社外から仕事をやってほしいという依頼もありましたが、すべて断ってきていたんです。目の前の仕事だけでもすごく忙しかったですし。でもその時は「やる」以外の選択肢がなかったですね。

会社への報告の仕方は受けてから考えました。本来は順番が逆なんですけど(笑)。今でこそ副業も当たりまえの時代になっていますが、そのころはリクルートといえど、ほとんどいなかった。しかも、マネジャーという立場でもありましたし、ダメだと言われたらその時は会社を辞めようという覚悟でした。

その勢いが伝わったのでしょうか、「リクルートとはバッティングしないSP領域だし、会社の仕事に支障が出ないようにしてくれるならいいよ」とOKをもらい、副業としてN社さんのゴルフブランディングの仕事を始めることになります。
昼間はマネジャーとしてメンバーとの打ち合わせやお客さまへの提案がありますので、深夜になって気合を入れ直して企画書の作成やコピーライティングをしていました。体力だけには自信があったので頑張れましたけど、今考えるとよくやってたな、と思います(笑)。

「コミュニケーションのパートナーになる」と決意してからの起業 

N社ブランディングの仕事は本当に刺激的でしたね。僕にとって副田さんはもうずっと雲の上の人。広告業界の人間であれば必ず副田さんの作品を手本にして勉強しています。でもいざ仕事を始めると、20歳も年が違う僕と友達みたいに接してくれる。対等なパートナーとしてアイデア出しや議論をさせてもらいました。

そしてついにやってきた、ゴルフクラブローンチキャンペーンのプレゼンの時。テーブルの向こうには日本法人の責任者が集まっていました。世界的なブランドですから国籍もバラバラで、プレゼンはもちろん英語。これほど多様な方たちに自分たちのアイデアが伝わるか、不安がなかったと言ったら嘘になります。
僕たちが提案したのは、これまでのゴルフ広告の常識を取っ払って、ゴルフの躍動感や醍醐味を伝えるもの。過去にない素晴らしいクラブだけど、プロのように打つには練習も必要ですよ、とブランドらしいユーモアも込めました。
メディア展開では、主要な新聞の下5段の広告枠をジャックして、紙面をまたがりゴルフのコピーが“飛んで”いく様子を表現したり、駅全体を使って、ボールを打った軌道にそってコピーが展開されていたり…。

あれはまさに会心の瞬間でしたね。目の前のN社の方々がこちらのプレゼンに頷きながら口々に「エクセレント…。」と言ってくれて。副田さんと「よかった、こんな気持ちいいプレゼン久々だ」と握手を交わしたのを覚えています。

さらに驚く展開がまっていました。米国本社で開かれたN社のグローバル全体のマーケティング会議で、「ジャパンからこんなアイデアがきた」と僕たちのアイデアが共有されると、なんと「グローバルもそれでいこう」と。全世界のゴルフのローンチに僕たちのアイデアが採用されたんです。
これはすごいことになったな、と思いましたよ。
提案までも大変でしたが、その後もまさに怒涛の日々。この広告のユニークさ、面白さ、ポイントはなんなのかを各国のコピーライターに伝え、世界のキャンペーンが始まることになります。

「そろそろ自分のキャリアを決断しないとな」という考えが頭をよぎり始めたのはその1年後。
ゴルフの広告の実績が認められて、今度はN社の野球の広告キャンペーンのお話が舞い込んだんです。しかも、アメリカに渡った野茂選手を起用したプロモーションを始めるとのこと。「ゴルフに加えて野球もできたら完璧だ!」と心が震えました。

しかし、そのお話をいただいた時には、僕はリクルートのHR制作部門を束ねるクリエイティブディレクターとして、たくさんのメンバーとプロジェクトに関わり、お客さまにも日々提案をしている立場になっていました。それでもゴルフと同じ条件であれば両立できる可能性がありましたが、野球のプロモーションでの条件が1ヶ月ロサンゼルスでロケをする、というもの。
「これはダメだ。さすがに提案のピークの今、1ヶ月いなくなるのは人間としてありえない」と思って、断腸の思いで断りました。

正直、その頃には個人事業主としても自分のやりたいことができていて、収入も成り立っていましたので、独立してもやっていけると自信はついていたんです。だから、野球のお話を断ったときに、改めて「リクルートで働くことの意味、リクルートで成し遂げたいこと」を真剣に考えました。

結論は「自社のブランディングをやってみたい」でした。これまではHR領域でもN社さんの仕事でも、お客様のための提案をやってきた。でも、自社をクライアントとした時のブランディングはまだやってないなと。

そこから、HR制作部隊のトップという立場を思い切って捨てて、マーケティング局クリエイティブセンターに異動させてもらいました。
リクナビ、リクナビNEXT、とらばーゆ、フロムエー、じゃらん、カーセンサーなど、数々のプロモーションを担当。HR領域のコンセプトメッセージ「仕事が楽しいと、人生が楽しい。」も生み出して、すごく充実した日々を過ごさせてもらいましたね。

自分がクライアント側に立ち、広告代理店から提案を受ける立場になってしみじみ感じたのは、お客様と本当の意味での「パートナー」になる稀有さです。
当時お付き合いしている広告代理店の方からは、自分たちが持っている商品(広告枠)にどうはめ込むか、という前提のもとでの提案が優先され、プロモーションに起用するタレント案なども、ブランドやコンセプトイメージからではなく、顧客側の決定権がある人の好みが優先されている実態がありました。
もちろんそれが全て悪いことだと言うつもりは全くありませんが、パートナーという意識でお客様の課題をいかに解決するかという話ばかりしていた身としては、驚きとともに「真のパートナー関係になれることは稀少なことなんだな」ということに気づかされました。
だとしたら、お客様と本質的なコミュニケーションを追求することを、僕が実現したい。その経験を経て、2005年、40歳になるタイミングでリクルートを離れることを決意することになります。

辞めたらリクルートを失うと思ったのは、大きな勘違いだった 

独立して最初の約1年半はひとり。オフィスもリクルート時代からお世話になっていたデザイン事務所の6畳ほどの部屋を貸してもらって、お客様との打ち合わせもそこでしていたんですが、部屋に3人も入れない位(笑)。

ありがたいことに、辞めてすぐびっくりするほど仕事をいただけたんです。多くがリクルート在籍時代に一緒に仕事をしたことがある方からの声かけでした。リクルートを卒業して、他社にいったり会社を立ち上げたりした人たちが「紫垣、辞めたの?じゃあ一緒にやろうよ」と。

リクルートを辞める前は、辞めたらリクルートとの関係を失うと思っていました。リクルートを失っても、僕が役に立てるお客様は、きっと外にもいるはずだと思えたから、勇気をもって外に飛び出す決断をしたんですよね。
でも、むしろ辞めたことによって、リクルートの血がこんなにも社会に張り巡らされていて、お互いに同じ釜の飯を食った関係としてすぐに繋がり合えることを知りました。
それは在籍していたころには見えなかった部分。リクルート時代、お客様との仕事を通じて心が沸き立つ瞬間は何度も経験させてもらいましたが、また別の意味でリクルートの財産を感じましたね。

こうして軌道にのりはじめ、もっとやれる幅を広げたい、と人を増やすことに。今も弊社で掲げている「『ああ、すっきりした。』をあなたに。」というコンセプトは、この時に仲間になってくれたメンバーみんなで生み出しました。

2004年にインサイトコミュニケーションズを立ち上げて早15年。
N社の仕事も長く担当させていただきましたし、リクルート各社の全社総会の設計や、有望な若手活性化のための研修など、本当に幅広く仕事をしています。

一貫していることは、リクルート時代も今も変わりません。
僕がワクワクする瞬間は、やっぱり人が元気になったり、社会が元気になる、そこに立ち会えた時。これはリクルート時代の経験からものすごく感じさせてもらいました。若い時は本当に自分本位な人間だったんですけどね(笑)。
そのワクワクする瞬間を生み出すために、自分が使える武器が、制作や広告で磨いてきたクリエイティブですし、コミュニケーション設計のスキルです。「伝説の新人」という本を書いたり、その研修などは、一見、僕がやってきたこととかけ離れているように感じるかもしれませんが、どれも受け手がいて伝える側がいて、そこをどう設計するかということなので、基本的には同じこと。すべてにおいて、相手が受け入れる状態をいかに作って、そこに何を刺していくのかを作り上げる。アウトプットの形は違いますが、使っている筋肉は同じです。

嬉しいことに仲間も増え、同時に課題解決のためにできるアウトプットのバリエーションもどんどん広がっています。これからもお客様も交えたチームみんなでワクワクする瞬間を追い続けていきたいですね。

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