一刻も早く/二輪草/いちばんのAdieu
さくらをきれいだ、と思えない春が何年かに一度ある。今年がまさにその年回りで、もやもやとした白いかたまりの下を通るたびに「一刻も早く散ってしまえばいいのに」と思ってしまう自分がいる。散った花びらが道路の隅で汚れていくのも、木に取り残された萼もひどく虚しく感じる。
さくらがきれいだ、と思えないことを人には言えない。そういえばこの春はあまり花をきれいだと思えない。わたしの外側も内側もちょっとくたびれていて、植物のエネルギーに完敗しているのだと思う。唯一こころ惹かれたのは、ごみ捨て場の脇に咲いている二輪草だった。週に5日、ごみを捨てに行っては、覗き込んで花を確認する。一本の茎が途中で二本に別れて、その先に楚々とした白い花が咲く。このふたつの花は同時に開くことはない。その時間差がとてもうつくしい。調べてみると、花びらのように見えるのは萼であるらしい。自分は萼のきれいな花が好きなのだ、と気づく。
フォーレの「Poëme d'un jour」を聴き比べてみる。何人かの歌唱の中から、3曲目の最後の「Adieuー」の歌い方が1番気に入ったものを繰り返し聴いた。しゃぼん玉がふわりと風に乗って、手が届く高さでふっと消えてしまうような「Adieu」だった。
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