見出し画像

葛西を歩く。

 葛西に住みたいね。
 突然姉がそんな話を持ち出してきたのは、私が大学一年生だった冬の頃、まだ私と姉が経堂でシェアハウスをしていたときのことだ。
 葛西。
 当時は馬場歩きをしていて東西線を利用したこともなかった私は、その駅名を聞いたことすらなく、突然出てきた「住む」という言葉に全く現実味を感じられなくて、リビングのソファで寝転んでいた体を起こした。
 なんでまた葛西、と尋ねると、姉は得意げに口を開いた。
「私の友人の知り合いが葛西に住んでるんだけどさ、北海道と行き来して仕事してるらしくて、北海道にいる間に住んでくれる人を探してるんだって」
 へぇ、と鼻で返事をする間もなく、姉は続けた。
「五十㎡くらいの広いワンルームらしくてさ、真ん中に仕切りとかつけたら、私とあんたで一緒に住めそうじゃない?」
 なるほど。起こした体をもう一度倒す。
 三十歳手前、独身。この頃の姉は、やたらと私と二人暮らしをしようとしていた。理由は単純。家賃が安いからだ。
 世田谷の高級住宅街、経堂の一軒家で、自由にのびのびと生活できるにも関わらず、家賃は光熱費、水道代全て込みで六万円。家に帰れば優しい友達が出迎えてくれる、そんな経堂は手放すにはあまりにも惜しい物件で、気を抜けば五年でも六年でも居座りたくなる安心感がある。
 その安心感に浸って、案の定独身のまま五年以上住み着き、三十路という人生の節目を迎えかけていたのが、当時の姉だ。婚期を逃す前になんとか自立して一人暮らししようと頭のどこかで考えながらも、ずっとぬるま湯から抜け出せずにいる。なんせ経堂と同じくらい好条件の家に住もうと思えば、経堂より家賃がずっと高くなることは避けられない。渋る気持ちも十二分に理解できた。
 だから、私なのだ。
「ね、十万円くらいの2LDKとか借りてさ、家賃折半して一緒に住めば、お得だと思わない?」
 下心が丸見えだ。まだ経堂に住んで日の浅い私をお前の節約に巻き込もうとするな、と言い返す口を塞ぐように、姉は私を説得する。
「私たちって十年くらい離れて暮らしてたんだし、今やっと二人暮らしなんかして姉妹の時間過ごすの、すごい楽しいと思うの」
 そう言われてしまうと、悪くないような気がしてしまうから、この人はダメな姉なのだ。

 そうしてぼーっとしているうちに、葛西に住んでいる「家を貸してくれる」らしいお兄さんとの対面の日時が、姉によって取り決められていた。場所は銀座、姉の働くフォトスタジオで、彼女の仕事が終わった時間に集合だ。
 姉も、友人の知り合いだというその男性に会ったことがないらしく、(別にどんな人でもどうでもいいとは思っていたが、)とりあえずはその人と会える日を、私たちは楽しみに待つことにした。

 東西線の満員電車は嫌いだ。大手町で乗り換えて向かった銀座はギラギラとした街の光が無駄に大きくて、怖い。スタジオに着くと姉が笑顔で出迎えてくれて、その向こうには、「その男性」がのっぺりとした笑顔で突っ立っていた。
「初めまして」
 そう会釈する男性の髪は伸ばしっぱなしで長く、焦げ茶に焼けた肌の色と体型こそは健康的だが、笑顔はどこか陰鬱で暗い。美術関係の仕事をしていると聞いたが、確かにどこか芸術家気質な、ナイーブな雰囲気が漂っている。
「……ハジメマシテ」
 私も人のことなど全く言えなかった。人見知りが如実に出るカタコトでぼそりと返事をし、そそくさとその場の椅子に座る。
「とりあえずさ、この近くの焼き鳥屋さん予約してるから、三人でごはん食べよーよ。」
 この空間で唯一明るい姉が、はつらつとした声で呼びかけた。姉は偉大だ。
 私たちはスタジオを後にした。

 男の名前は橋本翔太郎(仮)といった。年齢は三十歳、姉より一歳年上で、サッカーが好きらしい。言われてみればサッカーの好きそうな顔だ。長友に似ている。親が北海道で経営している美術商をいずれ継ぐことになっているらしく、東京と北海道を行き来しながら生活を送っていた。
 美術商ということで、アートに造詣が深い。写真家の姉とはかなり話も合うようで、二人はすぐに意気投合し、会話を弾ませていた。私はなんとなくその男性の弱々しい雰囲気が好きになれず、二人の会話を左から右に流しつつ、焼き鳥をぬるくなったビールで流し込んでいた。

「それで、どんな家なんですか」
 開始三十分ごろ。やっと姉が家の話を切り出した。
「五十㎡くらいのワンルームで、家賃は大体●万円くらいだといいかなぁ。二人で住むのは悪くないけど、ワンルームだからどうかなぁ……。」
 煮え切らない口調だ。
 家賃を聞いて、一瞬姉が渋い顔をしたのが目に映る。そういえばこの焼き鳥代は誰が払うんだろう。
「今度直接葛西のお家をお邪魔しても大丈夫ですか」
「そうですね、今日は遅いから、また後日いらっしゃればご案内します。」
 そうして、その日は銀座で飲み続けることになった。葛西を訪れる日程を調整したが、三人の日程がなかなか合わず、姉だけが先に一人で翔太郎さんの家を見に行くことが、決定した。
 姉と翔太郎さんは、相変わらず共通の友人の話やサッカーの話をしている。最初は二人に合わせて相槌を打っていたけれど、今は白子ポン酢と焼酎が美味しい。いつのまにか日付が変わり、終電がなくなっていたけれど、そのことにこっそり気づいていたのは私だけだった。
 私と姉をタクシーに乗せ、翔太郎さんはひとりで私たちを見送ってくれた。食事代もタクシー代もなぜか彼が払ってくれて、タクシーの椅子に座ってから、姉は申し訳なさそうに、少し嬉しそうに、私の肩にもたれかかってきた。
 姉の肩越しに小さく手を振る翔太郎さんの中途半端な笑顔を見ながら、やっぱりいけ好かない人だなぁ、と、ぼんやりと思っていた。

 その次の日からも、姉は相変わらず私との二人暮らしに乗り気だった。
 私が大学にいる間、サークルで歌っている間もいつもメッセージが届く。
「葛西以外だと門前仲町とかも最高よね」「見て! すごい良い家!」「家賃は高いけど東西線に住めたら素敵だね」「西武新宿線にだけは住みたくないよな」__
 私はなんとなくそれを見て、あぁ、いいんじゃない、などと適当な返事を返す。内見にも付き合わされた。いろんな街を見て回って、どこがいい?と聞かれると、はっきりと答えることはできなかった。
 姉と二人で暮らししたい気持ちがないわけではない。一緒に過ごしたいとは常に思っている。
 けれど、いつもどこか姉の熱に振り回されていて、それに対して、ノーとは言えない自分が積み重なっていく日々に、少しうんざりもしていた。
 大学一年生の、冬の思い出だ。

 葛西を歩く。
 今になって葛西を訪れようとしたことに、特別深い理由はない。むしろ最初は吉原か北先住が希望だったし、葛西自体にそこまで興味があったわけでもない。それでも「葛西」という地名を見たら嫌でも一年生の冬を思い出さずにはいられなくて、それで私は、葛西を歩くことを、この自己陶酔の入り混じるノスタルジーなエッセイを書くことを、決めた。
 西葛西の駅を降りるとそこには広場があり、私は思い切りぐるりと回って、街を見渡した。スーパーやコンビニは街にたくさんあり、吉野家やガストなどのファミレスも、あちこちに見える。居酒屋もいくつか並んでいて、駅の下にちょっとした商店街があるのも最高だ。アクセスだって早稲田駅から電車で一本だし、都心からは少し遠いけれど、一人暮らしするなら立地も申し分ない。
 住み心地が良くて、綺麗で、けれどどこか突出したところのない、平凡な街。
 少し裏通りに入れば病院のように清潔で無機質な灰白色の建物が並んだ、閑静な住宅街が現れる。取り立てた面白みのないチェーン店が並ぶ高架下をぼんやりと見ながら、のっぺりと笑う、気の弱い翔太郎さんの笑顔を思い出した。
 彼の家は、この西葛西駅から葛西駅に向かう道のどこかにある。少し遠回りして、気まぐれであの家に行こう。
 北のほうにある緑豊かな平成公園を散歩し、公園前のインドカレー屋さんで昼食を食べて、しばらく北葛西を遠回りしながら、駅へと向かった。葛西駅まで、あと徒歩五分。

 家を探している日の間、私が葛西を訪れたのは、一度だけだった。
 姉は翔太郎さんと二人で家を見に行き、ご飯(どうせインドカレー)を食べて帰ってきて、その一週間か二週間後に、私と姉の二人で、彼の家に泊まりに行った。お人好しが過ぎる翔太郎さんはそのときは北海道にいたけれど、不在中に得体の知れない女二人が泊まりにくるのを許してくれた。
 葛西に着き、まぁなかなかいい街だよね、なんて偉そうなことを嘯くのもそこそこに、翔太郎さんの家に内見という名のお泊まり会に向かう。
 翔太郎さんの家のガスコンロを使って料理をし、翔太郎さんの家のお風呂に入った。日付が変わってからお菓子と缶ビールを開けて、二人で大げさなことを語り合って夜を明かした。

「あの辺に仕切り置いたらさ、二人でも住めるかな」
 部屋の真ん中あたりを指差して姉は言った。
「まぁ、でも二人で住むなら壁ある家がいいよね」
 そうだね、と相槌を打つ。住むならこの家じゃないほうがいいよね、と。
 もう家探しを始めてからだいぶ日が経っていたけれど、この時点で進捗は何も得られていなかった。いつもちょっとしたことで、私か姉が口を尖らせ、ここじゃないね、と言う。
 お互い本当はそうやって理由をつけて、家と出会ってしまうのを避けていることに、きっとお互いが薄々気づいていた。私はまだ経堂を離れたくなかったし、もし引っ越すなら、ちゃんとした一人暮らしがいい。そんな思いが日に日に増していたけれど、いつも私のためにあくせく家を探してくれている姉に向かって、一人で住みたいと言い出すのは申し訳なくて、結局中途半端な答えばっかり投げかけてしまう。翔太郎さんの家に流れる穏やかな時間の中で、楽しそうに姉は笑っている。
 言わなきゃなぁ、と思った。
「姉ちゃん、あのさ、」
 リビングにある青いソファに座りなおす。姉はゆっくりこちらを見た。私は散らかった言葉をぐるぐるとまとめる。
「やっぱ私、一人で暮らしたい」
 目を合わせられなかった。
 怒られるかな、と少し不安に思っていたのは、まだまだ子供だったのだろう。でもそれ以上に、姉が少しでもショックを受けていたり、悲しんだり、そんな顔を見るのは嫌で、私は下を向いていた。
 夜中だから、車の音も、電車の音も、聞こえない。ただ、私と姉の息の音が、部屋に響く時計のカタコトという音と、呼応している。
 しかし、沈黙を破った姉の答えは、予想の斜め上をいくものだった。
「私、翔太郎くんと付き合うことになってさ」
「は?」
 素っ頓狂な声が漏れた。
「え、いつのまに」
「ヤァ、なんか、流れで、ふふ」
「いや、てか展開はや、そんな感じだったっけ」
「よくわかんないけど、うん、なぜかそうなった」
 はぁ。
 どうやら家を探していたら、男が見つかったらしい。
「おめでとう」
 反応に困りつつ、祝辞の言葉を述べると、姉は嬉しそうにお礼を言った。
「じゃあ翔太郎くんと二人で住めばちょうどいいじゃん」
「最近はそういう話も出てる」
 へなへな、と肩の力が抜けた。
 杞憂だったらしい。一人で姉に暴走させているとばかり思っていたけど、そういえばさっぱりしている人だった。全くもって私を責める様子もなく、けろりとしている姉を見て、安心と同時に、その優しさに感謝した。
 翔太郎くんと付き合えて幸せなら、家探しも無駄にはならなかったと言うことだ。ウィンウィンである。
 ほっと胸をなでおろすと、翔太郎さんの笑顔がまた蘇った。優しくて、どこか無機質で、なんだか苦手だと思った、十歳以上年上の男性。
 二人暮らしは望んでなかったとしても、これから二人で一緒に過ごす時間が、あのぽっと出の男に取られるのかと思うと、少し癪に触るな。私の目の前には、いずれにせよ姉離れをせねばならない現実が横たわっていた。
 姉は私の憂鬱などつゆ知らずで、別の提案を持ち出してくる。
「てかりやこさ、なんなら私と翔太郎くんで三人で暮らさへん?」
「絶対に無理」
「結構真剣だったのに……。」
 あなたも早く妹離れをしてくれ。
 

 葛西を歩く。
 北葛西を回って葛西駅に到着したら、駅前の広場に路線バスがたくさん停まっていた。葛西は東西線しか通っておらず、移動をバスにしか頼ってないあたりが、やはり不便な街だ。
「葛西臨海公園行き」と書かれたバスに、気まぐれで乗った。姉と翔太郎さんが確か二人で行っていた場所だ、と余計なことも思い出す。
 スマホで時間を確認した。今は十七時過ぎ。臨海公園にある水族館はとっくに閉館しているし、今日は雨だから、今頃行っても公園には何もないだろう。けれど、もう少しこの街を見てみたい。
 バスの中から街を見ると、雨で淀んだ空が藍色に染まり始めていて、街灯に照らされた殺風景な街は彩りを取り戻している。
 何駅かを通過し、街の明かりがちらほら少なくなってきたあたりで、バスは葛西臨海公園駅に到着した。しんと静まる街に足を下ろす。雨水が地面いっぱいに広がっていて、ふと顔を上げると、うわぁ、という声が漏れた。
 青白く光る巨大な観覧車が、陸橋の向こうにそびえている。暗く静まり返った何もない場所に堂々と構える姿が浮き上がって照らされていた。陸橋に登ると濡れた道路に大きな観覧車の体がまるまると映し出されていて、あたり一面を鮮やかな光で彩っている。陸橋の下には光の線を描きながら車が往来していて、夕闇の中に溶けて沈んでいきそうでもある、幻想的で眩しい光景が、広がっていた。
 要はデートスポットである。
 雨が強まってきたので傘を強く握りしめ、上着のボタンを閉じて、こっそり辺りを見回した。観覧車の方から、恋人同士らしい二人組が肩を寄せ合ってこちらに向かってくる。私は完全に一人だ。予想できたはずなのに、たった単身で無計画にこんな場所に乗り込んでしまった自分を、今更恨む。
 仕方がない。ここまできたなら歩くしかない。公園の中に足を運ぶ。
 もう夜の訪れた公園は、どこまで歩いても閑散としている。足を止め、ぐるりと一回転してみると芝生とその向こうにある駐車場が光っているだけで、私以外に人はひとりもいなかった。
 妙な征服感がある。日頃は人で溢れているのであろう公園に、たったひとり。駐車場も駅も、目に映る光景全てを独り占めした気分だ。
 けれど、夜風が強く吹きつければそんな楽しさも一瞬で隅に追いやられ、現実的な寂寥の感が唐突に込み上げてきた。
 観覧車は私を空高くから見下ろしている。特別会いたい人がいるわけでも大切な人がいるわけでもなかったが、秋の風には、人を恋しくさせ、消し去った思い出を突然蘇らせる力が眠っている。
 過ぎ去った日常に形作られた、動かしようもない現実。
 通り過ぎて言った人々に何を思ったって、何も届かない。 
「……戻るかぁ」
 柄にもなく変な感慨に浸るのは疲れてきた証拠だ。独り言が響く。駐車場に停まっているバスに乗れば、そのまま葛西に着くだろう。
 真っ暗で誰もいない芝生を踏みしめながら、私はバス停へと向かった。

 翔太郎さんは姉と付き合ってから、三回ほど経堂を訪れた。いずれの日も、私と同居人で少し気の弱い彼をリビングに引き止め、夜遅くまで、あるいは朝まで人生観や恋愛観について語らせた記憶がある。さんざん自分の恋人にべったりで、警戒心剥き出しの可愛げのない妹を、彼がどう思っていたのかなんて知る由もない。
 「家を譲ってくれる見知らぬ男」が、いつのまにか「姉の恋人」に変化したいたのだ。翔太郎さんが二回目に経堂を訪れたころから、私の呼び方も、「翔太郎さん」から「翔太郎くん」に変わっていた。
「なんで友情って明確に終わらないのに、男女関係は終わったらそこで終わりなんだろうねぇ」
 ソファに寝転びながら、姉の恋人にくだらない質問を投げかけた。
「付き合ってる間って一番近い場所にいて、毎日連絡も取り合うのに、別れた瞬間赤の他人になって、サヨナラ。友人として関わることも難しいじゃないですか。終わった瞬間全部終わりなんて、寂しくないですか」
 べらべらと喋る私に対し、翔太郎くんは終始落ち着いたペースで相槌を打っていて、相変わらずゆったりとした小さな声で、私の質問に答えてくれた。
「終わった恋は、終わった恋だからなぁ」
「終わっても、友達には戻れないの?」
「友達と恋人は完全にベクトルが違うから、別れたらそれまでだよ」
「翔太郎くんは別れた恋人とは友達にはなれない人なのか」
「うん、もうそれっきり」
「そっかぁ」
 姉も、翔太郎くんの隣で頷いている。それだけの会話だったけれど、なんとなく寂しさを感じていた。なんだって、過ぎ去ってしまったものは過去のまま、動かなくなってしまう。わかっていても、難しい。
 「葛西に住む見知らぬ男」だった「姉の恋人」は、「なんでも聞いてくれるお兄さん」に変わってしまっていた。気が弱くてつまらない人だと思っていたけれど、葛西は翔太郎くんのような街だと思っていたけれど、でもうるさくて明るい姉との組み合わせは好きだったし、兄が増えるならこんな人がいいな、とも思い始めるようになっていたのも、この頃だった。穏やかな時間が好きだった。

 でも、あの日からもう一年半以上の時間が経過して、三人のうち誰かが一緒に住む日は、とうとう訪れなかった。
 私は経堂を出て、鷺ノ宮という未開の土地で完全な一人暮らしを始める一方、姉は翔太郎くんと二人で住む計画を具体的に練り続けていた。
 翔太郎くんは二回ほど私たちの親に挨拶に行き、姉も彼の父親と東京で会っていて、それぞれ気に入ってもらっていたし、母は翔太郎くんから一枚絵を買わされていた。
 しかし、翔太郎くんは親の都合で北海道に完全に引っ越してしまうことが決まってから、少しずつ状況は変わり始める。同棲する話はなくなり、北海道に引っ越してからは姉ともなかなか会えなくなってしまって、遠距離恋愛に耐えられなかった姉はあっさり翔太郎くんと別れてしまった。翔太郎くんは北海道で親の仕事を継ぎ、親に言われたお見合い相手と結婚することが決まって、姉にはもう、別の恋人ができた。
 翔太郎くんが引っ越す前に譲ってくれたソファは、もう私も姉もいなくなった経堂のリビングに、今も置いてある。

 葛西を歩く。
 最後の最後だ。駅に戻ってきたので、すっかり太陽の沈みきった辺りを見回しながら、翔太郎くんの家と思える場所に、曖昧な記憶を頼りに向かった。(実際は姉から住所を送ってもらった。)相変わらず並んでいる居酒屋はつまらないものが多い。「熟女Bar ムーランルージュ」だけは気になるが、それくらいだ。
 ありふれた住宅街の中に並ぶ、ありふれたアパート。褐色に錆びたポストと、雨で黒く染みた薄暗い螺旋階段。こんな建物だっただろうか。けれどこんな場所だった気がする。
 携帯のカメラを向けると、姉ちゃんと二人で過ごした葛西での一日がふとよみがえった。翔太郎くんが経堂に遊びに来た日のことも、三人で喋った時間のことも。
「終わった恋は終わった恋だからなぁ」
 翔太郎くんは確かにそう言っていて、姉と翔太郎くんは、本当に、完全な赤の他人になってしまった。実の兄よりも色々な相談をしたけれど、そんな日々が帰ってくることも、彼が兄になることも、もう、ない。
 葛西だって、今日を最後に、これから訪れることは二度とないだろう。

 だから、最後は。

 秋の風に吹かれて、妙なノスタルジーに浸りながらシャッターを切る。
 街歩きは終わった。来た道を戻りながら姉にその写真を送ると、五分ほどで返事が返って来た。
「これ、翔太郎くんの家じゃないで」
 人間の記憶力なんて、そんなものである。

オ…オ金……欲シイ……ケテ……助ケテ……