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モトヤフ桑田さんインタビュー<前編>

元ヤフーメンバー・インタビューシリーズ第7回

7人目のモトヤフインタビューは、現在PayPayに勤務されている桑田さんです。桑田さんは学生時代に1年間休学して世界一人旅をされたり、ヤフー退職後はシニアボランティアでご家族と一緒にミャンマーに約2年間滞在されたりとワールドワイドな経験をされています。今回はそんなエピソードを語っていただきます。

事務局
まず最初に簡単な自己紹介をお願い致します。

桑田さん
桑田浩二といいます。ヤフーには2008年から2015年までいました。主に内部統制室に所属していましたが、退職直前はマーケティング本部でプロモーション広告のセミナー講師をしていました。ヤフー退職後はシニアボランティアでミャンマーに渡航し起業を目指したものの、その後断念。帰国後は三井住友信託銀行に勤務、現在はPayPayに在籍しております。

事務局
早速ですが、学生時代の世界一人旅のお話を聞かせてください。

桑田さん
大学4年生の時に1年間休学して世界旅行をしました。大学時代に自転車クラブに所属していたこともあって、自転車での世界旅行を目指しました。
横浜から船でナホトカに渡航。当時はナホトカが実質シベリア鉄道の拠点となっていました。そこからモスクワまでのシベリア鉄道約7,000kmを輪行袋に入れた自転車を持参して移動しました。ロシア帝政時代に建設されたこの路線をおおよそ7日間かけて走破するわけですが、当時のソ連の施策として旅行者には途中駅での宿泊を強制していました。

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事務局
自転車を袋に入れて列車に乗車するのですね。

桑田さん
スポンサーのオーストリッチが無償提供してくれた輪行袋と呼ばれる袋に大学時代に購入したマウンテンバイクを入れて列車移動しました。

事務局
当時のソ連国内の様子はどうでしたか。

桑田さん
旅行の最初の経由地のソ連は崩壊1か月前と言うこともあってか、街には軍人ばかりを多く見かけ、またスーパー等には大勢の行列ができているにもかかわらず、店内には商品が不足していたのが印象的で、モスクワ最大の百貨店も「十貨店」って呼ばれていました。

事務局
モスクワに着かれた後は、どちらまで行かれましたか。

桑田さん
モスクワ到着後はさらにワルシャワまで15時間ほどかけて鉄道移動しました。現ベラルーシとポーランドの国境を通過するときのソ連の出国検問がとても厳しくて、自転車を含む荷物をすべてチェックするためにパンツ一丁で駅のホームに下ろされて、6月とは言えまだ寒い中を長時間待つことになったこともありました。

事務局
ポーランドという国ではどんな様子でしたか。

桑田さん
有名なベルリンの壁崩壊後に、民主化運動が活発になり1991年の自由選挙では非共産政権が成立してポーランド共和国になっていました。
今世界遺産になっている旧市街の街並みは中世ヨーロッパの雰囲気があり素敵だったので、治安面で油断してしまい、日本円の200円程度で宿泊できるユースホステルの表に置いていた自分の自転車を盗まれてしまいました。
加入したら却って盗難に会う気がして盗難保険にも入っていなかったので、大使館等にも届けましたが、もはや手遅れでなすすべもありませんでした。

愛着もあった自転車だっただけにとてもショックでした。もちろん当時のワルシャワではこうしたスポーツ自転車は売っていなかったので、その後の旅行行程は全て自転車なしということになりました。

荷物としてリュックサックの他に自転車に積んでいた2つの自転車用のキャリアバッグもあり、自転車がなくなったのでこれら荷物を全部自力で運ぶことになり、非常に重かったと記憶しています。

事務局
大変なショックだったと思いますが、その後ワルシャワからはどちらに行かれましたか。

桑田さん
ワルシャワからは早く治安の良い場所に移りたいと思うようになり、デンマークに移動、2週間ほど滞在したのち、さらにアイスランドに渡りました。アイスランドは人口が当時24万人ほどの氷河と火山の島で、広大な自然に圧倒されました。自転車を買って1周しようと思いましたが、物価が非常に高くて、日本で4〜5万円レベルのMTBが10万円くらいの値段だったので結局購入は諦めて、バスで10日間の島1周キャンピングツアーに参加しました。
そしてアイスランドから再びデンマークに戻った後、今度は北欧諸国を列車で1周しました。画像2

事務局
北欧ではどのような経験をされましたか。

桑田さん
北欧諸国を巡った理由は、大学の専攻が福祉工学科であったこともあり、外国における福祉制度や施設に興味があり、実際に見てみたかったからです。障害者だけで営んでいる工房や学校を見学させていただきました。工房は当時の日本とは違い、車いすでも作業や移動がし易い等、身体障害者が働きやすい環境が提供されており、福祉先進国であることを強く実感しました。一方これらの福祉国では、労働人口も比較的少ないことから、障害者も労働人口と積極的に考えなければ、産業が成り立たない社会環境があるということを、施設の管理者から直接伺うことができました。

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事務局
自転車の盗難があったことで、旅行のコース変更も強いられた状況ながら、北欧で福祉施設の見学をされるなど収穫はあった訳ですね。次に向かわれたのはどちらの国になりますか。

桑田さん
当初予定していた次の目的地の南米は、日本人専門家が殺害されるなど治安が乱れていたこともあり、次にどこに行くか迷っていましたが、バックパッカーのベテランが「行き先に迷ったらロンドンに行けば、その先どこにでも行けるよ」ってアドバイスしてくださったこともあり、ロンドンに約1ヶ月滞在することにしました。ここでは語学学校に留学するスタイルでホームステイをしたので、比較的安い滞在費で長期間過ごすことができました。

事務局
ロンドンでの長期滞在後に向かわれたのが南米でないとしたら、どちらだったのでしょうか。

桑田さん
先ほども触れた通り、ペルーでの日本人殺害事件が当時発生していたこともあって、南米行きは取りやめてアフリカに渡航することにしました。ロンドンの地下鉄の看板にでかでかとキリマンジャロの写真があったので、登りたいと思いました。

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アフリカでは、キリマンジャロのあるケニアやタンザニアからザンビア、ジンバブエを経由し陸路で南アフリカの喜望峰まで行きました。東西冷戦の時期であったことの影響もあって政情は安定していましたが、こちらの国々でもいずれも治安は悪く強盗も多かったようです。
また南アフリカは海も山も動物も楽しめ、食べ物も美味しい観光には最高の国と言う反面、ちょうどアパルトヘイト政策が終了した直後で、例えば列車は1等と3等に分かれていて、2等車はなく、黒人は当然3等の方に乗車していました。また子供たちが遊ぶプールなども白人と黒人用に分かれていて設備も歴然と異なっていました。こうしたアパルトヘイトの厳しい現実を実際に見れたことも、ある意味では旅行の貴重な経験になりました。

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こうしたアフリカ大陸行の最後に喜望峰を訪問し、そこから飛行機でロンドンに戻り、列車で1週間かけて横断したシベリア上空を飛行機で10時間で日本に帰国しました。
(後編に続く)

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