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モトヤフ喜多埜裕明さんインタビュー

今回は1997年のまさに”ヤフージャパン創業期”に社員番号31番のメンバーとして入社後に、様々なサービス立ち上げの陣頭指揮を執ってこられ、 井上元社長や創業期の多くのメンバーの方々と共に、今日のヤフーの礎を取締役COOとして築いてこられた喜多埜 裕明さんにお話を伺います!

-喜多埜さん、今日は宜しくお願いいたします。まず最初にお生まれや現在のお住まいをお伺いできますか?

生まれは横浜で、三歳くらいからはずっと横浜のはずれに住んでいました。そして今も横浜市の青葉区に住んでいます。

-大学では教育学部に進学されたそうですが、なぜ教育学部を選ばれたんですか? 

叔父などが教師をやっており、その影響で教育には馴染みがあり、教職課程がありかつ民間就職の選択肢も残せる環境という基準で選びました。教員の道も考えていましたので一応教職も取りました。でも実は早稲田の教育学部は教職をとるのが1割程度なんです。

-大学ではどんな学生生活でしたか?

大学時代はほとんどサーフィンばかりやっていました。そして出席が厳しい授業以外は代返などを頼んだりしてサボって、麻雀をしたり。企画サークルに入って、学園祭で企画をしたり、自分たちでパーティーを開いたりと、派手なことが好きでした。

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活動していたイベントサークルは“491”という名のサークルで、中森明菜、石川秀美、三田寛子、早見優がデビューするときに、早稲田に呼んでイベントをやってたんです。
そのときの後輩などには、その後テレ朝の役員になっている人やワイヤードカフェとかを運営するカフェ・カンパニーの社長がいたりしました。

そのほかにも、雑誌やテレビを巻き込んでミスコンを企画したりと、何か企画を考えて、自分で運営することにやりがいを感じていました。

そんな多忙な中でも塾講師のアルバイトもしていました。父の麻雀仲間が塾を経営していた関係からアルバイトを薦められたからです。深く考えずに始めたのですが、元々教職志望ということもあり、小中高生に向けて授業をするのは面白かったですね。決められた授業時間の中で、どんな流れで何を教えるかひたすら考えました。塾でも企画を考えているような感覚でしたね。自分で言うのもおかしいですが、「人気講師だったんですよ!」

-サーフィンはいつから始めましたか?また主にどこでサーフィンをされてましたか?

高校の終わりくらいからハマって大学からは本格的にやるようになりました。

大学では午後にはちゃんと学校には行ってたので、サーフィンは殆どは湘南でやってました。また夏休みや土日には伊豆とか千葉とかにもいってました。ところで“ちゃんと学校に行ってた”というのは、実は授業に行くかどうかは別で、喫茶店とか行ったりしてたんです。笑

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社会人になってからも赴任先のアメリカでサーフボードを買ってサーフィンを楽しんでいましたし、ヤフーに入社してからも、当時CFO だった梶川さんが、鴨川の方にサーフィン用のマンションを購入したこともあって、“ヤフー非公式サーフィン部”で、金曜夜から泊まって土曜日は朝からサーフィン、それから昼にファミレスに行ってランチしてから帰る、みたいなことを結構やっていました。

-最初に就職されたのはどういう会社でしたか?

㈱桧林社という学習塾なんです。先ほどもお話しした大学時代からアルバイトをしていた学習塾です。その塾がその後香港を手始めに海外展開を始めまして、NY進出が正式に決まったタイミングで正社員としての就職を勧められました。

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でも当時は教員になろうか就職しようか悩んでいたタイミングで、しかも大学4年生まで飛行機に乗ったことがなく、英語もわからない状態だったので、最初は嫌だなあと思ったのですが、親や周りの友人達からも「NYいいじゃん。行きなよ!」と声を掛けられたりしたので、「そうかも、皆がそれほど良いというなら3年くらいは行ってみるかな!」と、正式に塾への就職を決めました。

現地では、日本人の学生に向けて、帰国後の日本での受験のための対策や進路相談を担当しました。日本では、塾は学校の授業の補助的機能ですが、アメリカでは、日本国内と同じカリキュラムを学ぶ機会は塾にしかありませんので、生徒からの頼られ方が全く変わり、非常に大きな責任の伴う仕事でした。

-アメリカには何年くらいいらしたのですか?

3年位のつもりで行ったのですが、結局10年もいました。
日本の経済成長が激しく、海外在住の日本人が増え、最初は数10人くらいの生徒が100人、200人、300人となっていき、ニューヨークだけでなくロサンゼルスやシカゴでも教えるようになり、気づいたら自分もグリーンカードを取得していました。

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ただ、その間にバブルが弾けて、海外赴任するのがファミリー層から独身若手にシフトしてきたこともあり「この先はそれほど伸びないだろう、この業界はもういいかな」というのと、「もう10年もいたしなあ」というので転職することを決意しました。

-ネット企業への転職を志す以前に既にパソコンやインターネットに触れる機会はあったのですか。

塾の現地法人の外国人トップがとてもパソコン大好き人間だったこともあって、AOLやコンピュサーブなどの「パソコン通信」が始まったタイミングで、トップに勧められて個人的にもパソコンで遊ぶようになりました。

また塾が夏などにシカゴなど北米の他の地域で講習会をやるようになった際には、その生徒などとパソコン通信を利用して会員制の教育相談受付などをやるようになりました。

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と言うわけでヤフージャパンができる以前の1994〜1995年頃から、既にプライベートでも仕事でもパソコンをつかっていました。

-塾講師からはかなりフィールドの異なる業種分野のヤフーに転職されましたが、その時の気持ちとか感じた課題とか働き方などの文化の違いはありましたか?

ヤフーに入ったときは34才くらいで、特に何も考えていませんでした。ヤフージャパンがスタートする以前に、Jerry Yangがスタンフォード在学中に作ったYahoo Incは既にあって「情報がたくさんあってすごいなー」と思っていたので、ヤフージャパンの募集を日経新聞で見つけた瞬間に「面白そう!」と飛び込みました。入社は1997年の2月で社員番号31番でした。31人中には孫さんなども入っているので、オフィスにいたのは実質20人位だったかと思います。

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当初は広告の運用部隊として入社し、途中から経営企画になり、何でも屋として幅広い業務に携わりました。最初は検索とニュース・天気しかなかったサイトに、株価やスポーツ、不動産に旅行、自動車にショッピングまで、幅広いサービスを追加していきました。

こうして入社してからは様々なサービスの立ち上げに立ち会ってきました。例えば創業期にYahoo!トラベルを立ち上げるとき、Visaと組んで活動していましたが、あるときVisaの人に誘われて何かのイベントに行った際にJTBの人が講演をしていたので、Visaの人に「僕あの人に会いたーい!」とお願いしてJTBの人とつないでもらって、それがヤフートラベルが本格的に立ち上がるきっかけになったこともありました。

-そうした創業期のまだ社員数も二桁程度の時期に、今のヤフーの規模になることを想定してましたか?

人数的には想定してなかったけど、当時も広告市場が6兆円、四大マスメディアで4兆円、テレビ2兆円、新聞1兆円という規模だったので、いずれインターネットを使う人が増えたらこのインターネット市場でのメジャーなポジションが狙えるんじゃないかと思ってましたし、Yahoo!トラベルやYahoo!不動産など次から次に新しいサービスの立ち上げに携わっていきました。

一方で、インフォシークなどインターネットサービスの競合企業が、商社などの後ろ盾で、金はあるみたいな感じでどんどん進出し始めてきたときは、ニュースが出るたびに「やばいですよ!」とか緊張感が走りましたが、当時の社長の井上さんはとても落ち着いていて動ずることもなく、結果スピーディーに様々なサービスを展開できていったのが良かったのかもしれないです。

会社の規模も拡大し市場での存在感も大きくなっていく中で、42歳で役員になり、44歳からはCOO(最高執行責任者)になり、事業の全責任を負うようになりました。そして入社時と比べ社員の数が100倍以上になり、プレイヤーとしての役割から、マネジメントとして責任を負って事業を回すことに力をシフトしていきました。

-ヤフーの良さって何でしょうか?

信頼できる部下と話し合いができて、やっていけるという環境。それが何人いるのかということ。宮坂がいて、志立がいて、殿村がいて、影山さんがいて、側面的には工藤さんがいて、広告は武藤さんがどんと構えてやっていた。そんな感じで上司・部下関係なく一緒にやっていけるという感覚がすごくありました。また井上さんとは50人・100人・1000人と会社が大きくなっていく中で、組織をどう作るかとか、マネジメントスタイルをどう変えていくか、といったことについてよく話し合っていた記憶があります。

宮坂はずっとメディアをずっとやっていたけど、あるときショッピングに変えたら、初めはとても嫌がっていましたが、3ヶ月後には「変えてもらってよかったです!楽しいですー!」と言ってました。彼が後に社長になり副知事になっていくという流れからみても、そうした思い切った組織配置の変更は本人にとっても経験値として良かったんだと思う。

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みんながそれぞれ上手くやってくれていたなあという感じ。みんなが「なんとかしよう」というマインドをもって、がんがんやっていた。上の人に従う、というよりも、みんな当事者意識をもっていたと思う。

-Yahoo! JAPANをやめたのはいつでしたか?またヤフーを退職されるときはどういった気持ちでしたか?

2012年でした。率直に言って、もう少しやると思っていた。
井上さんも梶川さんも僕も、孫さんとそのとき1on1ミーティングをしたのだけど、その中で、若返りをやろうか、という話になった。

3人がヤフーを辞める際に「井上さんにどうするんですか」と聞いたら「ソフトバンクの役員やらないかって言われたけど俺はやめるよ。俺、スマホとかあんまりわかんねぇんだよな」と言っていて、「お前はどうするんだ?」と聞かれた。

「僕もソフトバンクの執行役員やらないかって言われてて」と答えたら「お前ももういんじゃないか?ゆっくり顧問でもやれば〜」と言われたけど、孫さんに「来い!」って言われて結局ソフトバンク行っちゃいましたね。笑

-ソフトバンクに移られてからもスマホサービスの立ち上げで尽力されました。

ソフトバンクモバイルの役員になり、新しいスマホのサービスを作ることに注力しました。ヤフーという”サービス”を作る会社から、ソフトバンクという”営業の会社”に移ることに不安もありましたが、孫社長に声をかけてもらって、できることをやろうと思い、チャレンジを決めました。

-現在色々な会社の役員や顧問されていらっしゃいますよね。

ソフトバンク傘下の3つの会社が合併することになり、それをきっかけに会社を離れることに決めました。そして52歳にして、新たな道を歩むことに決めました。

今役員や顧問の形で関わっている会社の数は20弱くらいです。これまで経験した経営やマネジメント・ITの知見を、直接自分が主役にはならない方法で社会に発信していくという経営支援の形で携わっています。私にとって「働く」とは、単純にお金を稼ぐためだけではなく、誰かの役に立つことだと思っています。

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-インターネットの黎明期からその中核でお仕事をされ、かつそのサービスフィールドがスマホに移っていく中でも、深くその事業展開に関わられたと思います。そうしたご自身のキャリアを振り返ってどんな思いがありますでしょうか。

とても多忙でしたし、競合の動きなどもありハラハラドキドキの日々でしたが、インターネットやモバイル、スマホといった成長分野に携われて楽しい社会人生活を送れたと思います。

-ところで現在のご趣味は何でしょうか。

若手の育成、食べ歩き、パチスロ、たまにゴルフなど色々あります。

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-塾講師マインドで、今の若者にキャリア含め、ぜひアドバイス頂けますと幸いです。

どこかの会社に所属するもよし、自分で起業するもよし。楽しくがむしゃらにやれるところで働いてほしいですね。
働き方改革とかもあるけれど、時間を割いてでもこれを創りたい!という想いが大事だと想います。
やっぱり当時のヤフーもそういう人が多くて、みんな頑張ったからこそ成功できたのかなと思います。

-イマヤフ・モトヤフ・読者の方にそれぞれ伝えたいメッセージがありましたらお願いいたします。

仕事も遊びも楽しんでやれるように心がけて行きましょう。
また、1億人以上の人口でも親しくなれる人はごく僅か、仲間を大切にしていきましょう。

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-喜多埜さん、本日はインタビューご協力ありがとうございました!

(インタビュアー:飯島聡美、川村英樹)

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