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モトヤフ喜志さんインタビュー<前編>

元ヤフーメンバー・インタビューシリーズ第8回

今回は、SBI証券の事業開発管掌の執行役員に就任されて現在ご活躍中の喜志さんにインタビューをお願いいたしました。喜志さんはナポレオンをはじめとする古今東西の戦略家や偉人に関して大変造詣が深い方でもあります。では記事をお楽しみください。

事務局
お名前とご出身を教えてください。

喜志さん
喜志武弘です。神奈川県の二宮町で育ちました。田舎ですが、海と山に恵まれた良い町です。町から観える大きな富士山は絶景です。毎日、富士山を観て登校していました。

事務局
これまでのプロフィールをご紹介ください。

喜志さん
ヤフーに2005年7月に入社後、2015年にヤフーとソニーのJVのSREホールディングス(旧ソニー不動産)の経営にヤフー指名取締役として参画し、2016年10月1日以降は、東京証券取引所マザーズへの上場準備のため、転籍しました。2019年にはSREホールディングスを東京証券取引所マザーズに上場させ、2020年以降現在までSBI証券にて事業開発担当役員を務めています。

事務局
ヤフーに入ったきっかけは何でしたか?

喜志さん
世界史を勉強すると、好機は乱世にこそあると思っていたところ、当時も、群雄割拠する乱世っぽいのがインターネット業界でした。業界ナンバーワンで仕事した方が色々と効率が良いと思いヤフーに応募したところ、運良く採用が決まったので、入社しました。

事務局
ヤフーでのお仕事は具体的にはどんな内容でしたか?

喜志さん
最初の仕事は、ヤフーへの広告の掲載可否を判断する仕事です。広告審査基準の起草を行い、10人程度のチームの取りまとめをしておりました。メディアとしてのYahoo! JAPANのクオリティを保つ仕事であり、広告営業の方々が稼いできてくださった広告売上と、メディアポリシーの狭間で、利害調整をする仕事です。
その時に大変お世話になったのが、ヤフー初代編集長の影山さんです。また、楽天、マイクロソフト、Gooなどのインターネット業界の広告審査担当者の方々を集めてノウハウの共有会を企画し、開催していました。これが2005年7月から2008年3月までの2年8ヶ月です。

事務局
その頃のエピソードはありますか。

喜志さん
広告審査での仕事を評価され、CEO井上さんとヤフー初代編集長影山さんのご指示により、Yahoo! JAPANのユーザーファーストのエッセンスをまとめて起草するよう特命を受け、「Yahoo! JAPANサービス憲章」を起草いたしました。Jhonson&Jhonsonのクレドに相当するものです。

素案をつくって、影山さんと共に、CEO井上さん、CFO梶川さん、COO喜多埜さんにご報告に行きましたが、3役と編集長に、ヤフーのサービス指針の素案を、平社員が説明するという謎のシチュエーションでした。経営会議での発表の際、自分の左にCEO井上さんがお座りになり、右にCOO喜多埜さんがお座りになり、真ん中で発表しているお前は何者だ?という視線を、事業部長の皆さんが向けてくる中で、PCの操作をとちったら、COO喜多埜さんが、自分の発表に合わせてPCを操作してくださる優しいフォローをしてくださりました。

今思えば、CEO井上さんに、Yahoo! JAPANのエッセンスを直接何度もお聴きするという、驚くほど贅沢な経験をいたしました。自分が、CEO井上さんに直接関わらせて頂いたのは、これくらいですが、自分の中では大きな財産となっています。

事務局
その後法務ではどのような仕事をされますか。

喜志さん
2008年4月以降2013年3月までの5年間、いわゆる企業法務として、ビジネス側の新規事業の立ち上げのサポ―トとして、ビジネススキームの整理、相手方との交渉、契約作成を行っていました。インターネットサービスの総合デパートであるヤフーにおいて、広告、検索、ニュース、メディア、映像、コマース、管理系の法務責任者を順に担当(当時の法務部員で広くここまで担当したのは私のみでした)したので、インターネットサービスの主要なビジネススキームや、相手方との経済条件などが概ね頭に入り、後にビジネス側で、新規事業開発を担当する際にこの経験が大変役に立ちました。

事務局
法務からヤフオク!に異動したきっかけは何ですか。

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喜志さん
メディア事業部が、インターネット政治献金サービスを企画し、法務として協力する事になりました。学生時代に河野太郎先生の選挙を手伝ったり、事務所でアルバイトをしていた事があるという理由で、各政党との交渉担当として、当時の自民党小池百合子先生、民主党細野豪志先生、公明党高木陽介先生、みんなの党江田憲司先生の各事務所と折衝し、テスト版へのご協力を得ました。eビジネス連合会(現新経済連盟)を使い、カード業界との折衝なども行い、テスト版へのご協力を得ました。ここでサービス側により近い仕事が面白いと思ったのがひとつのきっかけです。

その後、宮坂さん新体制発足直後に開催された、半年で30億の営業利益を稼ぐという、ヤフー社内の事業開発コンテストに応募し、法務部員ながら、事業部門の方々を押しのけて、全社のグランプリを頂きました。これでサービス側の方が向いてるのかなと思いました。

事業開発コンテストに優勝したこと、広告、検索、ニュース、メディア、映像、コマース、管理系の法務責任者としての各サービス支援のありかたが評価され、いくつかのサービスより、ビジネス側に異動しないかというお誘いを頂き、最終的に、ヤフーの当時の2大看板サービスである、ヤフオク!とYahoo!ニュースのうち、ヤフオク!を選択しました。

事務局
ヤフオク!のビジネス開発時代のお話を聞かせてください。

喜志さん
2013年4月に異動して直ぐに、寺田倉庫様のクラウド倉庫サービス「minikura」にヤフオク!への出品機能をつけるアイデアを企画し、関係者の皆様のおかげで、異動後4ヶ月でリリースでき、最初の実績をつくりました。このアイデアは、電車の中で「minikura」の広告をみたときに思いつきました。本件により、個人として、ヤフオク!カンパニー内のスーパースターを受賞しました。

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その後、全国のブックオフ様の商品をヤフオク!に出品するというアイデアを企画し、本当に様々な関係者の皆様による協力のおかげで、2014年に資本業務提携が成立しました。本件により、プロジェクトとして、全社スーパースターの第2位を受賞いたしました。本件が自ら最初に企画から実行まで手掛けた大型のM&Aでしたが、最初が100億円規模のディールであった事で、一気に経験値が上がりました。その後、資本関係は解消されましたが、ブックオフ様は、2020年のヤフオク!ベストストア第1位を獲得されました。当時のヤフオク!管掌役員の坂本さんと、その次の管掌役員の梅村さんが、自由にやらせてくださったおかげです。

事務局
ヤフーからSREホールディングス(旧ソニー不動産)に出向となったきっかは何ですか。

喜志さん
ソニーが、不動産会社を始めたという事で、ヤフオク!から、メディア事業の新規事業開発チームに異動となり、創業直後のソニー不動産へのM&Aの交渉チームに入りました。7ヶ月後の交渉を経て提携が成立して、一番熱心に交渉していたということで、当時のメディア管掌役員の志立さんのご判断で、派遣取締役として、2015年8月に経営に参画することになりました。

事務局
その後、SREホールディングス(旧ソニー不動産)に出向ではなく、完全転籍されますが、どのような経緯がありましたか。

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喜志さん
ソニー不動産に出向するにあたり、ヤフーの人事と面接をし、取締役として経営参画する以上、ヤフー内の中間管理職としての評価対象からは外してほしいと要望しました。ソニー不動産の株主であるヤフーに対しては、ソニー不動産の企業価値を最大化する事が、取締役としてのミッションです。ですので、業務提携パートナーとしてのヤフーとソニー不動産の利害が対立した時、ソニー不動産の取締役としては、ソニー不動産の利益を優先させなければなりません。そうすると、業務提携パートナーとしてのヤフーから不満の声が上がるのは容易に想像できたからです。

取締役としての善管注意義務の話や、取締役としての立場と出向者としての立場が利益相反を起こす可能性などを丁寧にご説明しましたが、制度を急に変更する事は難しく、要望は通りませんでした。その後、案の定、自分が心配したような事が起きたので、ソニー不動産の経営にフルコミットして、上場させるには転籍するのが一番の解決と思い、決断しました。結果として上場させる事ができましたので、決断は正解でした。

👉(後編に続く)

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