見出し画像

何のために生きるのか、何のために働くのか (Harada)

大切な初っ端の投稿ではあるが、気負わず等身大の自分を綴ってみたい。

最近36歳の誕生日を迎えた。社会に出たての頃、36歳なんて遠い先で、よく分からないけれど何でもできる存在になっているんだろうと思っていた。どんな悩みを持っているかなんて想像もできなかった。

「何のために生きるのか、何のために働くのか」

これは20代後半から真剣に悩んでいて、既に10年近くが経過している。納得できる答えを見つけ出そうと自分なりに考えたり、自主的に研修や講演に参加したり、時には人生の先輩に直接質問をぶつけてみたりした。なのに今この瞬間、この質問に対して自分が放てる回答にはどことなく空虚さが感じられる。

大学を卒業し総合商社に入社。動機は「何か大きなことができそう」「海外に行けそう」。同じような感覚に人も多いと思うが「これがやりたい」という具体的なものはなかった。働くのは学業を終えた者の務めであり、働く意義、必要性など深く考えもせず社会に溶けていった。

これまで部署を転々とし、薄く広くではあるが様々な業務に携わることはできた。ただし、どれも命を懸けてやりたい仕事、天命と思えるような仕事とは思えなかった。
「本気でやれば、当事者意識を持てば、どんな仕事でも面白いはず」
と自らを鼓舞してきたものの、心からワクワクするような仕事には巡り合っていない。正直に言うと、どの仕事にも心を躍らせられるまで没入できなかったのだと思う。

時間が経過し、30代になったからといって自然に解決できる疑問ではなかった。独身の自由さに飽きたこともあり33歳で結婚。守るべき家族ができたことで仕事に対する姿勢や認識も変わるのではないかと自分に期待したものの、相変わらず仕事に没入できていない自分に気づき、不甲斐なく思った。

「私とは何者なのか」
そんな私の人生が少しずつ動き始めたのは2019年初め。知り合いに誘われて参加した講座、WaLaの哲学との出会いだった。講座の終わり、主催者に対して私は「率直に、私は変な人になりたいんです」と言った。変な人とは、人と違った存在、何か存在意義を持った存在、そんなものになりたいと心から思っていた。そんな私に対して主催者はこう返した。

「あなたは変な人になりたいんじゃない、何者かになりたいんです」

「私とは何者なんだろうか」この問いが頭から離れず、その日以来ほぼ毎日自問自答を繰り返している。自分が大切にしている価値観を探ってみたり、自分の強みを考えてみたり、ある決断をした際になぜそう決めたのか内省してみたり。自分が何者かを理解することが「何のために生きるのか、何のために働くのか」の疑問に対する解を導き出せる大きな鍵になるとの確信ができた。

ただし残念ながら2年経過した今でも「私はこういう者だ」と確固として言えるものが定まっていない。自問自答のたび、おおよそ同じ結論に行きつくのだが、それがまだ表層に過ぎないことを自分自身が感じている。もう一歩踏み込んだ解を導き出したいと日々もがいている。解の出ない問を考えることは本当に苦しい。

同時に自分が40歳の節目を迎える2025年は、日本にも自分にも非常に重要な転換点になるとの確信があり、今はそこに向かって着実に一歩を踏み出して然るべき時であるにも拘らず、自らが踏み出すべき方向を見出せていないことに、自分自身への落胆と焦りを感じる。

幸いなことに私には、ありのままの弱い自分を受け止めてくれる家族や仲間がいる。「私は何者か」を自らの力によって明らかにできた時、そんな自分は何をすべきか、何のために生きるのかが腹に落ち、どうにも抑えられない衝動をもって世の中に働きかけられる自分になっていることと信じている。そのためにも弱い自分を直視し、愚直に学び、誠実に行動し続けたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?