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時の彼方で ~第8章・八重(やえ)~

穏やかな日差しの中、窓の外には大きな桜の樹が生えていた。そよそよとなびく風が、満開の桜を揺らす。時折、勢いよく風が吹くと、花びらは宙を舞い桜吹雪となってハラハラと地面に落ちていった。

『お祖母ちゃん、どう?お元気?私よ。分かる?』
『お母さん、孫とひ孫が遊びに来てくれたわよ。ほら』
『ひいばあちゃん、俺のこと分かるかな?ひいばあちゃん、俺だよ。久しぶり』



「あなた…」


その日は、どこまでも青く青く澄み渡った空がきれいな1日だった。私はその頃17歳の学生で、日本は戦争の最中にあった。日本軍はマニラを占領し、ラバウルやジャワ島、ニューギニアなどに上陸。本土にいる私達は、まだ日本軍が優勢だと伝えられていた。暖かい春の日、親戚の紹介で彼に出会った。私より1つ上の、鼻筋が通り目元が涼しげな好印象の青年。
『初めまして』
「あ、こちらこそよろしくお願いいたします。八重と申します」

私達は、次の年に祝言を挙げた。若い男子はみな戦争に駆り出される。新婚だろうが、子供がいようが関係なかった。戦時中なので贅沢は出来ず、いつ召集令状が来るか分からない状況でも、私達は幸せだった。親が用意してくれた長屋の一間で新婚生活を送った。彼は優しくて、知的で、少し恥ずかしがりやな人だった。私は彼と一緒にいられれば、どこでも構わない。貧乏でも、物がなくても、古びた着物を張り直し着ていても構わなかった。彼といると戦時中だということを忘れられた。そのくらい、私は幸せだった。

程なくして私は妊娠。待望の第一子だ。昔は今のようにエコーだとか何だとか言うものがなかったから、生む前から性別が分かることもなかったが、お腹の張り具合で男の子だ、女の子だと想像しては彼と笑い合った。しかし、子供が生まれる前に彼に来てしまったのだ。赤い紙が…。


「お国のために行ってまいります」「万歳ーっ」「万歳ーっ!」。

私は大きなお腹を抱えて、千人針を方々へお願いしに回った。寅年の女性は、自分の年齢の数だけ結び目を作ることが出来たので、年の高い寅年の人を一生懸命探しては、針を刺してもらった。祝言の時に町の写真屋で撮ってもらった1枚をお守りと一緒に忍ばせ見送った。泣いてはいけない。お国のために名誉な事なのだから。そう周りからも言われ、涙をこらえ彼に手を振った。お腹の子のためにも、どうかご無事で。どうか…。

その年の暮れに女の子が生まれた。彼によく似た、鼻筋の通った色白の美人だった。出陣する前に、彼と二人で決めた名前。彼の名の一文字が入っている。早く知らせたい。しかし、それまでは手紙のやり取りも比較的順調だったが、娘が生まれる前には徐々に情勢は緊迫して行った。手紙を出しても届いているのかいないのか。彼からの返事はなかった。


次の年の8月。長崎と広島に原爆投下。戦争は終わった。東京も長崎や広島ほどでないにしろ、大変な状況だった。どこに誰が住んでいるのか。家族は何人いるのか。配給は…。戦後の殺伐とした中、私は生まれたばかりの乳飲み子を抱え、親戚の家を転々とし、軍からの電報を受け取ったのは、ずい分後になってからだった。

彼の戦死を知らせる通知と、大事に持っていた私達の写真が入ったお守り。毎日ずっと懐に入れてあったのでしょう。お守りはボロボロになり、写真も擦り切れていた。どんなにつらかった事か。どんなに苦しかった事か。最愛の娘の誕生も知らず、1度も抱くことも叶わず、あなたはお国のために空へと散って行ったのですね。

私はその晩、結婚後、初めて大きな声で泣いた。嗚咽を抑える事が出来なかったのだ。娘はビックリして泣き出した。
「ごめんね、ごめんね。お母ちゃんあんたのためにもっと強くならなきゃね」
彼の名前が一文字付いた、愛しい人との子供。この子を彼に代わって立派に育てなければ。幸せにしなければ。
「おかあちゃん、あんたを必ず幸せにするからね。お父ちゃんの分まで必ず」


それから私は必死になって働いた、昼も夜も働き通しだった。身体はきつかったが、娘の顔を見れば元気になれたし頑張れた。休むことなく働き続ければ余計なことを考えずに済む。彼がいないこと。彼ともう二度と会えないこと。そんなことも考えずに済む。私は必死に働いた。


娘は父親がいない不憫さはあったが、優しい良い子に育ったくれた。高等学校にも通い、都会の中小企業に就職。2人の生活も落ち着いてきた。
『お母さんも私に遠慮しないで再婚したら?』
そんな娘の説得にも聞く耳を持たなかった。私には彼がいるのよ。彼とはもう会えないけど、ずっとずっと好きな人なの。

娘は、会社の取引先で知り合った若者と結婚。娘婿は次男だったので同居をしないかと提案してきた。ありがたい申し出だった。でも、若い2人の邪魔はしたくなかった。しばらく私は1人で暮らしていた。思い出されるのはあの人とのこと。たった2年足らずの結婚生活だったけど、私は本当に幸せだった。愛し愛され、娘まで生まれて。あの人に抱かせてあげられなかったのが、唯一の心残り…。

長い長い年月をあの人なしで生きてきた。過ぎてしまえば、短い人生だったかもしれない。娘は、幸せな結婚をして2人子供をもうけ、それぞれスクスクと元気に育った。あなたと約束した通り、娘は立派になりましたよ。あなたと出会い、結婚して。召集令状が来るまでは絵に描いたような幸福な日々。愛する人の子供を産んで、戦死を知らせる電報が届き、もう生きていられないと娘を抱えて海に飛び込もうと思ったこともあったけれど…。生きていて良かった。

あなた、私、ひいお祖母ちゃんなんですよ。ビックリするでしょう。あの時の、まだ何も知らない小娘だった私が、あなたの年をあっと言う間に追い越して、お祖母ちゃんになって、ひいお祖母ちゃんになって…。もうすぐあなたの元へ行くことが出来るわね。鏡…鏡…。あら、いやだ。こんなにシワシワになって、シミもたくさん。写真のあなたは、若くて凛々しくて鼻筋の通った美しい青年のままね。私と会っても分かるかしら?こんなおばあちゃんになってしまって。いつかあなたに会えたら…また一緒になりましょうねって伝えなきゃ。


「あなた…」


『ひいばあちゃん、ボケちゃったのかな。俺のこと、ひいじいちゃんだと思ってるみたい』
『ああ、あんたはお祖父ちゃんにそっくりだから。私も写真でしか見たことないけど。ね、お母さん』
『そうね。私も会った事はないけれど。私が生まれた年に亡くなったみたいだから』
『ひいじいちゃんってイケメンだよね。俺そっくり!』
『バカね。あの頃の男性は、あんたみたいにチャラチャラしてないわよ』
『何だよ。そっくりって言ったじゃんか』
『あら、風が強くなってきた。ちょっと、お祖母ちゃん見てくるわね』


『八重さん、迎えに来たよ。よく今まで1人で頑張ってきたね。ありがとう』
「あなた。逢いたかった。ずっとずっと逢いたかった。いやだ、そんなにジロジロ見ないでくださいよ。こんなにおばあちゃんになってしまって、シミもシワも一杯…」
『八重さんは、出逢った頃のままだよ』
「あなた。この先、私達が生まれ変わっても、また一緒になってくれますか?」
『もちろんだよ。時の彼方で、必ずまた出逢おう。そして今度こそ永遠に一緒にいよう』


「あらあら。窓が開けっ放し。お母さん、さっき閉めなかったのかしら?風が強いのに…」
「どうしたの?あらやだ、あなた窓開けたの?桜の花びらがこんなに入ってきちゃって」
「やだ、お母さんが開けっ放しにしたんじゃないの?お祖母ちゃん寒くないかしら?」
「ひいばあちゃん、寝ちゃってる」
「うん…。何か幸せそうな顔してるわね。良い夢でも見てるのかしら」
「起こしちゃ可哀想だから向こうに行ってようか」
「起きたら、俺ひいじいちゃんの話、聞いてみたいな」
「そうね…。あっ、花びらが!」



『八重さん、こっちこっち。ほら、早く!』
「ちょっと待ってください。あなた待って」
『八重さん、ほら!これが君に見せたかった桜の樹だよ』
「まあ、キレイ」
『だろう?結婚したら毎年この桜の下でお花見をしようね』
「はい!5年先も10年先も50年先も、ず-っとずっと!」

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