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「教会一致運動」に関する啓示(リック・ジョイナー牧師)

リック・ジョイナー著『収穫』2000年7月14日発行(角笛出版)P. 4、P. 86-90より

序論

本書に出てくる幻を正しく理解していただくためには、この幻が、少しずつ実現するものであり、その全貌が明らかにされるためには、長い期間、おそらくは何年間もかかるだろうことを、心にとめていていただかなくてはなりません。それがいつ起こるかは示されませんでしたが、幻に示されたことの中には、第一版が出版された後に、実際に起きたものもあります。本書の幻がすべて実現するのに、五年かかるか五十年かかるか、私にはわかりません。私にわかるのは、たとえ五十年かかるにしても、これらこれから起ころうとしている事態に備えるためには、もう時間を無駄になどしていられないということです。

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偽りの教会一致運動

聖霊の導きによらない教会一致運動が始まるでしょう。このような運動の中には、教会内にさらなる分裂と混乱をもたらすものもあるでしょう。また中には、教会を支配しようとする偽りの信者によって始められ、反キリストの霊によってもたらされるものもあるでしょう。またある者は、来たるべきことを予見する賜物をいただいた真の信者たちによって始められたものでありながら、彼らは、自分たちこそ教会に一致をもたらすために選ばれた器だという欺きを信じ込んでしまうでしょう。偽りの運動によってあまりにも大きな混乱がもたらされるので、しばらくの間は、キリストの御体なる教会は、「一致」ということばを聞くだけでうんざりするようになるでしょう。
比較的小規模な偽りの教会一致運動があちらこちらでばらばらに起こりますが、その後、一つの大きな教会一致運動が起こり、それがやがて、御霊によって前進する教会(the advancing church)をいまだかつてなかったほど激しく迫害するようになるでしょう。この運動は、カトリック、プロテスタント、福音派、ペンテコステ派、カリスマ派、聖霊の第三の波に属するクリスチャンたちが結束したものとなるでしょう。この運動は、教会が大いに辱められた後(後の章で詳しく説明します)、はずみをつけて広がるようになるでしょう。その運動は、実際には、たましいの刈り取りを妨げようとする反キリスト軍の最大の策略でありながら、外見上は、教会の尊厳と信用とを再び築き上げるために、神が備えた働きのような体裁を整えるでしょう。
真の一致は、一致をもたらそうとするいかなる人物、運動をとおしてももたらされるものではありません。それが、いかに崇高に見えたとしても、キリスト教会統一運動(エキュメニカル・ムーブメント)や政治的な妥協、あるいは一致をもたらそうとする人間的な企てによっても真の一致がもたらされることはないでしょう。マルチン・ルターがかつて述べたように、「霊的な人たちは契約を必要とはしない。霊的でない人たちは契約も守れない」のです。迫害をとおしても、本当の意味で教会が一つになるわけではありません。歴史が証明しているように、クリスチャンたちは迫害によって、しばらくの間はお互いの違いを忘れることができますが、迫害がなくなると、彼らはまたさっさと別行動をとるようになります。迫害による教会一致は、心がすっかり変えられたからではなく、自分を取り巻く環境のためにもたらされたものであることが多いからです。御霊による一致は、あらゆる環境、境遇をも乗り越えるでしょう。それは、外の圧力によってもたらされるものではなく、御霊によってもたらされるからです。
来たるべき教会一致は、人間どおしの取り交わしや政治上の合意を越えたものとなるでしょう。主が、ヨハネによる福音書一七章二二節で祈られたように、「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」教会は、ただ主御自身の栄光を見るときにのみ、本当の意味で一つになることができるのです。イザヤが予見したように、「やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる」(イザヤ六〇・二)のです。教会が主の栄光を見るとき、教会は、黙示録四章一〇節から一一節に記されている二十四人の長老のように、自分の冠をすべて御座の前に投げ出すでしょう。だれが主の御前で、自分に名誉や地位があると思うことができるでしょうか。小羊なるイエスのありのままの御姿を仰ぎ見るとき、私たちは皆、自分のいたらなさ、うわべだけの信仰のために、あわれみを求めてひれ伏し、主の民を傷つけ分裂させるためにしてきたことのために悔い改めるでしょう。
真の御霊による一致に入る人たちは、そのことに気がつきもしないでしょう。彼らの目は、教会や、教会がどれだけのことを成し遂げつつあるかにではなく、主御自身に注がれるようになるでしょう。御霊によって前進する教会は、まもなく、主の会堂を礼拝するところからさらに霊の高嶺を目指し、やがては、会堂の主を礼拝するようになるでしょう。その結果、クリスチャンの間に、真の一致がもたらされるでしょう。
キリストの御体なる教会は、いつの時代も深く根を張った惑わしの霊に苦しんできました。それは私たちの中に住まわれる主がどのようなお方かではなく、もっぱらキリストにあって自分が何者であるかに私たちの目を向けさせようとしてきました。主にあって自分が何者であるかを知る必要もありますが、そのことばかりを強調するようになってしまったら、私たちは主がそうなるようにと召された人間には絶対になれないでしょう。私たちは自分を見つめることによって変えられるわけではありません。私たちが主に似た者に変えられるのは、主の栄光を仰ぎ見ることによってであり、それこそ教会がもつようにと召された姿なのです。
大きな運動が起こり、教会は聖書に描かれているままの教会生活、組織、指導体制へと立ち返るでしょう。しかし、主も、新約聖書の手紙を書いた使徒たちも、教会の組織については、あえて具体的には何も定めなかったということを肝に銘じておきましょう。もしそのようなことをしていたら、教会をまさに教会たらしめているいのちの源が、教会から奪われていたことでしょう。キリスト教はその組織形態にではなく、キリストとの交わりのうちに力を宿しているのです。教会を手本にして教会が造られるのではありません。イエスこそ教会が手本とすべきお方です。すべての教会が同じ方法で組織を運営しようと決断したところで、教会が一つには決してならないのです。ただ、すべてクリスチャンが同じお方に従おうとするときにのみ、教会は一つになるのです。

《終》

リック・ジョイナー著『収穫』2000年7月14日発行(角笛出版)P. 4、P. 86-90より


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