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「魚網」リック・ジョイナー著『収穫』P.47-52より

魚網

P.47-52 リック・ジョイナー著『収穫』より引用
角笛出版より2000年7月14日初版発行

主は、来たるべきたましいの大漁期のために、その救われるべきたましいを一人として恵みからもらさぬよう、大きな霊的な「魚網」を備えておられます。その網は、主の民がお互いに手を取り合うことによって完成します。この網の強さは、主の民の交わりがどれほど強いか、どれだけお互いの考えを交換し合うかによって決まります。お互いの交わりが深く、意見交換が活発であればあるほど、その網は強くなるでしょう。このような網は、地方教会の信徒たちの間にだけできるのではなく、あらゆる都市、あらゆる自治体、さらに国際的障壁を越えて世界中に及び、牧師どうし、各集会どうし、またキリストの御体に属するあらゆる異なった流れに属する教団の間にもできるでしょう。

エペソ人への手紙4章15節から16節には、「あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は……あらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ……るのです」と書かれています。結び目とは、一つの部分ではなく、二つの部分が組み合わされる箇所です。今御霊によってクリスチャンどおしが強力に結び合わされつつあり、あらゆる面でその結び付きは強くなっていくでしょう。そのような新しい結び目ができるたびに、結び合わされた人たちはさらに霊的に成長し、その人格は磨きあげられていくでしょう。

御霊は、牧師たちどおし、預言者たちどおし、使徒たちどおしを、お互い固い絆で結ばれるようにされ、一人ひとりのクリスチャンも、自分たちとは教理上の強調点を異にする人たちの教会を訪ね、お互いの交わりを持つようになります。これは主がなさることです。これらの集会の中には、不適切な議題をとり上げたために実を結ばないように見えるものもありますが、そのような集会でも、お互いの新たな交わりという実を結ぶことになるでしょう。これらの集会では、すぐにも主の臨在によって、主と私たち、またクリスチャンどおしの一致を妨げていた先入観やうわべで判断するという私たちの性癖は、ことごとく取り去られるでしょう。主の臨在によって、礼拝は詩篇133篇に歌われているような一致がもたらされるでしょう。私たちが、礼拝によって教会のかしらであられるキリストに油を注ぐとき、その油は主の御衣のすそにまで流れしたたり、さらにそれは、キリストの御体である教会全体を覆うようになるでしょう。

主は、教会指導者たちの間にある垣根を取り壊し始めておられます。その指導者たちこそが、教団間の垣根を作った張本人であり、教会一致にとっての最大の障害物になっているからです。ここにきて、クリスチャンどおしを分け隔てていた教派の壁が取り壊され、クリスチャンどおしが自由に教会間を行き来するようになるでしょう。たとえ教会指導者たちがこの傾向に待ったをかけようとしても、主は平信徒のクリスチャンたちをとおして、教会間の壁を取り壊し続けられるでしょう。そのため、キリストの御体なるクリスチャン一人ひとりがお互いに結び合わされるようになり、それを快く思わない牧師たちがいくら邪魔をしても、他教会のクリスチャンどおしの結び付きはさらに強くなるでしょう。それは聖霊の働きであり、それを押しとどめることはできません。この教会一致の流れに逆らい続ける牧師や教会指導者たちは、働きの場を失っていくでしょう。

教会一致の動きを快く思っていない現在のキリスト教指導者たちの中には、そのあまりのかたくなさのために、主の御心を遂行している人たちの働きを妨害し、迫害するようになってしまう人もいるでしょう。しかしそれとは逆に、心が変えられ、そのかたくなさを悔い改める人もいるでしょう。その中には、聖霊の流れに逆らってしまったために指導者としての地位を追われて初めて、本心に立ち返る人もいます。教会内においてクリスチャンどおしの心が堅く結ばれるようになると、霊的な指導者たちの心の奥底にある本性が暴露されるようになるでしょう。自分の利益や自分の名声のために指導者としての地位を築き上げてきた人たちにとって、この教会一致の動きは脅威となるのです。彼らの力ではその流れを押しとどめることはできなくなってしまったからです。このような「支配の霊」(control spirit)をもつ人たちは、これから先も、真実の神の働きにとって最大の障害物であり続けるでしょう。単に教団からではなく、真に神によってその任に命じられている人たちは、しだいに聖霊の働きにいっさいをゆだねつつ、教会員や自分の教会内に起こりつつある霊的な一致の動きを「支配」しようとはしなくなるでしょう。教会内の霊的な動きを「支配」しなくなると、その代償として、彼らには神の平安と安息に基づく霊的権威が与えられます。来たるべき霊的な動きを押しとどめることはだれにもできません。聖霊だけがこの働きを推進することがおできになり、主は今、御自身の権威に基づき、働きを始めようとしておられます。この「支配の霊」をもつ人たちは、世の終わりにいたるまで、神のあらゆる働きにとっての最大の障害物であり続けるでしょう。

おびただしい数のたましいが網に「かかる」ために、この網は何度も破れ、絶えずつくろい直される必要が出てきます。今のところまだ教会内には意見の相違がありますが、主はそれさえも用いられて、たましいの大漁期が始まると、考えを異にする人たちはもっぱら網作りとそのつくろいに専念するようになります。これら争いを避けるようになった人たちは、この人をとる網を作るのに大きな貢献をし、リバイバルが初めから終わりまで滞りなく進められるためにも大きな役割を果たすようになるでしょう。

自分がいつも争いの中にいると思っていた人たちも、自分たちはこれから始まろうとしている大いなるみわざのために、今まさに整えられているのだということを知って勇気づけられるはずです。主の弟子たちは、ちょうど、主に直接選ばれた十二弟子たちの間に議論が絶えなかったのと同じように、主の驚くべき臨在を感じながらも、口論し、競い合っているでしょう。パウロやバルナバのような偉大な使徒たちでさえ、意見の対立が発端となって、お互い別行動をとるようになってしまいました。時には、最も大いなる神の人たちの間にさえ、分裂問題は起こるでしょう。しかしその破れた網はつくろわれ、その破れた箇所こそ、かえって破れにくいように修繕されるでしょう。

過去に神に大いに用いられた経験のある人たちの中には、今まで信じてきた教理上の教えに固執したり、霊的な「イシュマエル」をかわいがりすぎるために、このリバイバルに加われない人もいます。この人たちの中には、この働きの仲間入りをしようとする人もいるでしょうが、彼らのお互いの交わりはうわべだけのものにすぎないので、たましいの大漁期が始まった段階で、さっさとその網からは遠ざけられてしまうでしょう。教理上の一致や、人間性に引かれたからなどという理由で手を取り合っている人たちの輪は、あっけなく崩れ去ってしまうでしょう。ただイエスをとおしてこの働きに加わった人たちだけが、この収穫期のリバイバルによって教会にもたらされる外部からの圧力に耐えることができるのです(コロサイ1:17参)。

とてもたくさんの人たちの罪が贖われ、教会はそれを大いに喜びますが、これら新しく救われた人たちは、さまざまな問題をかかえたまま教会に導かれており、教会員や牧師もそれには頭を悩ませるでしょう。教会内に持ち込まれるこれらさまざまな問題に真っ向から立ち向かうためには、教会内の一致は相当強くなければなりません。自分で重荷を負うのではなく、主のくびきを負うことを学んでこなかった人たちは、その重荷の重さに押し潰されてしまうでしょう。たましいの刈り取りに備えるために、主の安息の中で心休ませなければならないということは、いくら強調しても強調しすぎることはありません。私たちは、このことを肝に銘じておかなければなりません!

〈終〉

【福音】新しく生まれ変わる!(新生の祝福)
https://note.mu/risingdestiny/n/nb11945f61b7a

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