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【預言の学び】啓示・幻・預言の性質とその目的

リック・ジョイナー著『収穫』2000年7月14日発行(角笛出版)P. 4-19より

『収穫』リック・ジョイナー著、2000年7月14日発行(角笛出版)
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序論

本書に出てくる幻を正しく理解していただくためには、この幻が、少しずつ実現するものであり、その全貌が明らかにされるためには、長い期間、おそらくは何年間もかかるだろうことを、心にとめていていただかなくてはなりません。それがいつ起こるかは示されませんでしたが、幻に示されたことの中には、第一版が出版された後に、実際に起きたものもあります。本書の幻がすべて実現するのに、五年かかるか五十年かかるか、私にはわかりません。私にわかるのは、たとえ五十年かかるにしても、これらこれから起ころうとしている事態に備えるためには、もう時間を無駄になどしていられないということです。

どのように幻を受けたのか

どのようにしてこの幻を受けたのかについての「いきさつ」をよく尋ねられるので、そのことについてここで手短に述べておきましょう。この幻は、三度にわたって私の心に示され、ほぼその全体像が明らかにされました。まず一九八七年の九月、二度目は一九八八年の五月、そして三度目は一九八八年の九月でした。その間、またそれ以後も、私は、この幻や本書に書かれている内容について裏付け、解明するような、さまざまな「啓示」を受けました。より明確にするために、どのような状態でこれらの幻を受けたのか、その背景について簡単に述べておきましょう。

一九七一年に救われて以来、私は、将来のことが正解にわかるときがありましたが、たいていは漠然とした感覚で受取りました。また時には、人々を見て、その人たちのかかえている問題や、彼らが将来どのような霊的な働きへと召されるかについて、細かなところまで知ることができました。この能力が、聖書で言う「知識のことば」や「預言」の賜物であることがわかりました。私は、伝道の働きに際して、これらの賜物が役立つことは承知していましたが、この世の終わりに何が起こるかについての聖書の預言については、あまり関心はなかったし、終わりの時についての幻や啓示をいただきたいと思ったり、その幻や啓示が理解できるようにと願い求めたことはありませんでした。実は、私の関心は、近い将来起こることよりも、教会の歴史の方に向けられていたのです。教会内で脚色混じりに教えられている人気のある終末物語のあら筋については、私はいまだによく知らないのです。

私は、何年間かフルタイムの伝道を続けた後、自分は主との交わりが浅く、したがって、底の浅い伝道の働きしかできていないことを嫌というほど思い知らされました。私は、自分こそ、主のためにせわしく働いていながら、少しも主の御心に思いをはせようとはしない、「マルタ型」の人間であるように感じました。主との親しい交わりがなかったために、真理のことばにいのちを吹き込むために必要不可欠な御霊の油注ぎよりも、しきたりや方法論にばかり目を奪われてしまったのです。一九八〇年に、「純真なキリストへの献身」の心が回復するまで、伝道の働きから身を引こうと堅く心に決めました。私はパイロットをしていたので、航空会社に就職したのですが、そこでは学びと祈りに費やす時間をたくさんもてるようになりました。居心地のいいこじんまりとした教会を見つけ、その教会の後ろの席に座って、人々との交わりだけを楽しんでいました。何度か教会内でみことばを教えたことはありましたが、それからの七年間というもの、ほとんど伝道の働きには関わりをもちませんでした。その間、預言的な「御告げ」をいただいたり、御霊の賜物を用いる機会はほとんどありませんでした。

一九八二年に、再び伝道の働きを始めるようにという召しを受けましたが、同じ時期に、事業を始める機会も開かれました。伝道の働きを始めるには、その備えがまだ不十分で浅く、また、敵なる悪魔からこれまでにないひどい攻撃を受けたばかりだったために、私は事業のチャンスの方を選んでしまったのです。この世的になったというわけではなく、そのこと自体が罪だというわけではないかもしれませんが、私は、自分で事業を興すことに全精力を傾けていたために、その後の五年間は確かに主から離れた生活を送ることになってしまいました。一九八七年に、私は再び伝道の働きへと召されました。その時主は、もし私がまたしても伝道の働きに戻らないようなら、代わりに他の人を召すということばをもって私に迫られました。実は私は、自分が何に「召されているのか」自分でもわからなかったのですが、とにかく召しを失いたくはありませんでした。私はすかさずその召しに応えたのです。

もう牧師はすべきではないということははっきりしていたのですが、実のところ、どのように伝道の働きを進めていくことになるのか、自分でも皆目見当がつきませんでした。この七年間、キリスト教関係の雑誌には一度たりとも目を通していなかったし、テレビの福音番組も見ていなかったので、教会全般がどのような状態にあるのかをほとんど知りませんでした。私は、何年か前に、"There Were Two Trees In The Garden"(園にある二本の木)という本を書いたことがあって、それがとても好評だったこともあり、何回か講演を頼まれました。何人かの知人の牧師たちや、その本が縁で知り合った牧師たちに電話をかけて、私が伝道の働きをする用意のあることを告げました。初めての七年間にわたる伝道旅行を終えて、私は以前と少しも変わらないむなしさと、自分には伝道者は向いていないのではないかとの思いを胸に帰宅しました。また、訪れた諸教会ともどこかしっくりいかないものを感じていました。唯一心の励みになったのは、以前よりもはるかに主が近く感じられたことと、伝道の働きをとおして主に仕えたいという熱い思いがよみがえってきたことです。

私は、帰宅した翌朝、書斎にこもりました。その目的は、たまっていた書類を整理し、これから先どのように伝道すべきか、そのよい知恵を祈り求めるためでした。書斎に腰をおろすと、圧倒されるほどの主の臨在につつまれました。そして、預言的な啓示を受けていなかった七年間を過ごしてきた私に、その後の三日間、あふれるばかりの預言のことばが与えられたのです。それはまるで、主が、私の無駄に過ごしたこの七年間を取り返そうとしておられるかのようでした!この本に書かれている教会の現状と差し迫った数々の出来事は、ほとんどすべて、この三日間に示されたものです。

啓示とは

「オープン・ビジョン」という形で示された幻もありました。それは映画の画面を見ているかのように、目の前にその光景が映し出される幻です。また、「心の目」が開かれたかのように、静かに心の中に映し出される幻もありました。私は最近、聖書に出てくる幻のように、象徴的な光景ばかりの、解き明かしを必要とする幻や夢もたくさん見るようになりましたが、これらの幻はそのようなものではありませんでした。本書に書かれていることは、その多くが、文字どおり実際に幻として見たものです。

この本に記されているものの中には、幻という形ではなく、あふれる聖霊の油注ぎを受けた瞬間に、知識のことばとして私のうちに臨んできたものもあります。すなわち、将来起こることが、事細かなところまで一瞬のうちにわかったのです。それはまるで、これから何が起こるかが、頭の中に飛び込んできたかのようでした。今まで知らなかったことを、一瞬のうちに知るようになったとしか説明の仕様がありません。「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」(第二ペテロ三・八)というみことばが私に響いてきました。主は、本来は何年もかかって示すような未来のことであっても、一日のうちに示すことができると語られました。私は、このこと自体が、これから起こるであろうことを暗示していると考えています。これから神の御国(みくに)に入る者は、昔の人たちよりもずっと早いペースで霊的に成長しなくてはならなくなるでしょう。今や時が縮まっているからです。

私は、今の今にいたるまで知識欲が旺盛で、大人になってからも、たいてい、少なくとも週に一冊は本を読んできました。私が読みたいと思っていた本は、教会の歴史に関する物や古典文学の本ですが、興味を引かれたものは手当たり次第に読みあさり、その内容には一貫性がありませんでした。この本で明かされた霊的な悟りの中には、文字どおり主との会話によってもたらされたものもあります。主の御声が音声として聞こえたわけではありませんでしたが、それはいまだかつてないほど身近に主を感じ、主の臨在を実感できる瞬間でした。この間、主が私に語られたとき、そのことば数は少なく、文章もいたって短いものでしたが、そのことばのおかげで、私が何年かかっても一貫性に欠けたまま、その関連性について理解の糸口さえ見つかりそうになかった断片的な知識に、新たな悟りが加えられるきっかけが与えられたのです。

それぞれが何の関連もないと思い込んでいた事実や出来事が、私の頭の中でお互い関係のあることとして結び合わされてきました。このように、物事の真相を見抜く鍵となることばを主からいただいたおかげで、これまで学んできたり、見聞きしていながらなかなか自分のものとして消化しきれていなかった聖句や最近のさまざまな出来事を、この時以来、本当の意味で理解することができるようになりました。主は、「いなごが食った」年月を贖ってくださると語られました。この三日間に与えられた悟りは、私の五年の年月にも相当すると、心の底から実感しています。

私は、通常、「幻」ということばを、預言的な色彩を帯びた「映像」のようなものが見えるという意味で使っています。それは心のうちに映像のようなものが与えられることもあれば、目の前に映像のようなものが広がることもあります。「啓示」とは、私たちの人間的な能力を超えた知識や悟りをいただくことだと考えています。この本に書かれていることの大半は、幻か、人知を超えた知識や悟りをいただくことだと考えています。この本に書かれていることの大半は、幻か、人知をはるかに越えた啓示によって与えられたものです。個人的な学びによって得た知識をもとにして書かれた箇所もありますが、その知識さえも、御霊の油注ぎによって照らされて、本書でわかち合っているように、全体の視野の中で見ることができるようになったのです。

私は自分の見た夢や幻を人に話しておきながら、自分でもその意味がわからないと口にする人のことをよく耳にします。彼らは、まるで夢や幻という超自然的な経験それ自体に、信頼をおいているかのようです。私の幻はそのようなものではありません。私はこの本に書いた幻の意味を完全に理解しており、もしその意味がわからなかったら、このような本を書こうとは思わなかったでしょう。私は、終末に関する知識が乏しいことを告白します。この幻を受けるまでは、この世の終わりなどについては興味がなかったからです。そしておそらく、いまだに、他の人に比べたら、その知識は浅いことでしょう。私はクリスチャンになりたての頃に何冊かの終末論の本を読んでいたので、将来起こることについて漠然とはわかっていました。この幻を受けてから、この世の終わりについて以前とは比べものにならないほどの興味を覚えましたが、はっきり言って、本を読んだり、人から話を聞いても、それによってこの幻が正しいと確信できるようになったことはほとんどありませんでした。それどころか、終末について書かれた二冊の本を読んで、それらが互いに裏づけを与えているなどという話も、聞いたことがありません!

幻を受けるという体験をするまでは、 自分が今まで蓄えてきた一般的な知識は、ほとんど、それらがお互いに何の関係もないばらばらな知識のような気がしていました。しかし幻を受けた後、それらの知識が皆根底でつながっていることに気づいたとき、私に示されたこの幻を堅く信じることができるようになりました。それでも、自分に与えられた幻と悟りを、聖書に照らし合わせて一つひとつ確認したいと思い、実際に聖句を調べてみました。もちろん、聖書に歴史上の事件やこの世の終わりに起こることが事細かに書かれているわけではありませんが、聖書の中ではどのように神の民に幻が与えられているかを読み取っていくうちに、私が見た幻も、聖書の中に出てくるものと何ら変わらないという確信をもつにいたりました。もし私が幻を受けていなかったら、とても今のように聖句を理解することなどできなかっただろうと思います。

幻はどのように用いられるべきか

私は、この経験によって、世の終わりについての浅はかな考え方が変えられ、そしてそれは、より正しい聖書の理解に近づいたと信じています。私は、幻や夢、また与えられた預言をもとにして教理を打ち立てるべきではないと信じています。これらは、聖句がよりよく理解できるように、みことばをもっと生きいきとしたものとするために与えられているのであり、新たな考え方を樹立するために与えられているのではありません。これらの幻のおかげで、今までは何のことかわからなかった数多くの聖句に対して、私の霊の目が開かれました。

とはいえ、主がこの本を読む人たち一人ひとりにお語りになる余地を残しておくためにも、ここでは、参照聖句は最低限に抑えました。その方が読者にとって、この幻が意義深く、現実味を帯びたものになると信じるからです。だれか他の人の幻を読んで、それに同感しただけでは、必ずしも、その幻が自分のものになったというわけではありません。たとえ人に与えられた啓示ではあっても、主がそのことばに対する確信を与えてくださったとき、私たちはまさしく主にお会いしたのであり、それはもう、単なるだれか他の人の啓示ではなくなります。私たちは、常にサマリヤ人たちを見習わなければならないと、私は信じています。そのサマリヤ人たちは、井戸の傍らで女の話を聞いたからだけではなく、自分の目でイエスの御姿を見、自分の耳でイエスのおことばを聞いたことによって、主を信じるようになったからです。

預言の性質

最初の幻のあらましについて人々に話して以来、基本的に同じような幻を与えられて、それを記録していた人たちに会ってきました。中には、私よりも明快で、詳細に示されている人たちもいました。「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない」(アモス三・七)と約束されているとおりです。この幻を正しく理解するためには、この幻は特別だとか、この幻がすべてだなどと考えられるべきではなく、他の人に与えられた幻と足りない部分を補い合って初めて、全体像が浮かび上がるものだと考えられなければなりません。

私に示された幻は、たましいが刈り取られているところで終わっていますが、それが厳密にいつのことなのか、私にはわかりません。幻の中に出てきた出来事からこの世の終わりまでにどれほどの時間が残されているのかも定かではありません。私に言えることは、今が神の裁きの始まりであり、その裁きは神の家から始まる(第一ペテロ四・一七参)ということです。

しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです」(第一コリント一一・三二)。キリストのうちに身をよせる以外には、来たるべき裁きから逃れるための安全な逃げ場所もなければ、そのために私たちにできることもありません。イエスこそ箱舟であり、この方の中にこそ救いがあるのです。もし主のうちにとどまっているなら、私たちは正しい場所におり、正しいことをしているのです。もしこの幻全体を流れている中心的な主題があるとしたら、それは、今こそ初めの愛に戻らなければならないということ、そして純粋なキリストに対する献身の思いから、決してそらされてはならないということです。

いっさいのものがキリストにあって一つに集められる(エペソ一・一〇参)はずです。主のうちにとどまっているとき、今この時における私たちの目的と召しは成就しているのです。そのことが、ついには天にあるもの地にあるものの、あらゆる考えを従わせて、主との調和をもたらすのです。「万物は御子によって造られ、御子のために造られました。」イエスこそ創造の目的であり、イエスこそ神の御計画そのものです。イエスは父なる神の愛であり、願いであり、喜びです。神は、万物のうちに御子の御姿を見出そうとしておられました。そして神は、今私たちのうちに、御子の御姿を見出そうとしておられるのです。

この本では、あえて多くの部分を繰り返して書いています。それは、一番大切な主題へと読者の目を向けさせるためです。将来のことを予言するだけではなく、時には悔い改めやとりなし、またはその両者への招きに応じるように導くことこそ、預言の本来の目的なのです。その悔い改めととりなしが、私たちの運命(destiny)や将来の出来事を変えるということもありえるのです。ニネベで説教したヨナのことにふれるまでもなく、このような例は聖書の中にはたくさん見られます。ヨナは、悔い改めればニネベは滅びずにすむと説教したわけではありませんでしたが、裁きの預言には、必ず、暗にそのような意味合いが含まれています。

私たちの運命は変えられうる

ニネベが滅びなかったのは、ヨナが偽預言者だったということではなく、それは、真実の油注がれた預言のことばに、ニネベの民が従った結果でした。預言のことばを立証するようなしるしも奇跡もなく、ましてや神の油注ぎもなかったら、どうしてあれほどまでに神に背を向けていた都市が、一介のユダヤ人にすぎない青年の説教で悔い改めるなどということがありえるでしょうか。本書の預言に出てくる内容の中には、悔い改めととりなしによって変えられうるものもあります。しかし、神の最終的な御心がなされるための入り組んだ役割のために、変えることができず、また変わらないものもあります。何が変えられうる預言で何が変えられない預言かについてはこの本には書かれていません。そのようなことは、私にも示されていないからです。私に与えられた悟りは、神の御心には、変えられるものと変えられないものがあるということだけです。神の御計画を滞りなく進めるのにふさわしい器として用いられるために、私たちは、神が示されたすべてのことに対して、祈りと悔い改めによって応答してゆかなければなりません。

必ずしも、この預言の書に書かれているとおりの順番で、それぞれの出来事が起こるわけではありません。聖書さえ、そこで預言されている出来事はあえて順不同となっており、書かれている順番どおりにその封印が解かれるわけではありません。主がこのようなことをされたのは、私たちを混乱させるためではなく、預言の解き明かしを得るために、私たちが御自身に全幅の信頼をよせ続けるようにさせるためなのです。そのおかげで、私たちは、預言に対する理解だけではなく、主御自身を求め続けることができるのです。主が啓示と知識を与えてくださるとき、その主との出会いによって、私たちは、ただこれからどんなことが起こるかということだけでなく、その背後にどのような主の御心が隠されているかを知ることができます。だからこそ私たちは、単なることばだけに終わることなく、主の御霊により、その御心にそった形で、主のお語りになったことを宣べ伝えることができるのです。

これこそ、聖書の預言にしろ、新約聖書に出てくる預言の賜物による預言にしろ、預言全般にあてはまる特質です。もう一度言いますが、預言は、これから何が起こるかを言い当てるためだけではなく、教会を霊的に備えさせ、その未来の出来事に影響を与えるような応答を引き起こすために与えられるのです。もし御自身の予知能力を私たちに誇示したいと思われれば、主は御自身の聖書の預言をもっと具体的なものとすることができたでしょう。将来表われるであろう世界的な指導者、国家、起こるであろう戦争の名前、日付、その他細かな点まで前もって記すことができたでしょう。終わりの日には人々の知識が増えるなどというあいまいな表現は使わずに、航空機の発明や宇宙旅行などについても予言することができたでしょう。主は預言者の口をとおして、かなり具体的なことをお語りになるときもありますが、たいていは、そのようにはなさいません。主は、預言を理解するためには御自身に求めなければならないということを私たちに知らせるために、御自身の啓示を用いられます。くり返しますが、神は、私たちが、預言においてまだ示されていない空白部分を埋めるために、その重要な詳細について御自身に求め続けさせておられますが、これは神の御計画であり、私たちにとってもそれが益となるのです。「事を隠すのは神の誉れ。 事を探るのは王の誉れ」(箴言二五・二)です。主は御自身の民に、尋ね求める心を起こさせるために、預言を用いられます。主はこの地上において私たちが支配するようにと私たちを召されました。そして、神を求める指導者たちが、神の奥義と目的を探ることは、自然なことなのです。

あなたがこの幻全体をとおして理解しようとする過程で、主にお会いし、主の栄光を目の当たりにし、今以上に霊と真をもって心から主をあがめられるように変えられることを、私は祈ります。その時にこそ、私たちは、主の働きを正しく理解することができるのです。

私は、この一連の幻や他の「啓示」はまだ「鏡に映してぼんやりと見えた」ものにすぎないことを知っていますし、この幻についても、今までとは違った面から新たな悟りが与えられ続けているので、さらに版が重ねられるときには、そのつど新たに与えられた悟りをその改訂版の中に付け加えていくつもりです。しかし、預言の信頼性を維持するために、各章の最後に、日付入りで、新たに示された預言解釈を付記することにします。私は主から任せられたことばを正しく伝えるように心がけています。それは、時には以前に誤解して受け取ってしまった箇所を、修正するという作業を意味することもあります。今のところ、そのような修正は行なってはいませんが、さまざまな分野にわたってこの幻に関するより深い洞察が与えられたので、それを新たに付け加えることだけはしました。

幻が与えられる理由

ゼカリヤ書ハ章九節には、この幻が与えられた目的と思われることが要約されています。「万軍の主はこう仰せられる。「勇気を出せ。あなたがたは、万軍の主の家である神殿を建てるための礎が据えられた日以来、預言者たちの口から、これらのことばを日ごろ聞いているではないか。』

教会は、裁きの日を目前にひかえて、今よりも強められていなければなりません。私に一つのことばが与えられました。それは、「西洋の教会は、艱難に対して全くと言っていいほど何の備えもできていない。しかし、艱難はすぐそこまで来ているのである」ということです。

私たちは、すでにその信憑性が確立されている預言の声に耳を傾け、その預言に正しく応答していかなければなりません。一九八七年に初めてこの幻が与えられてからというもの、私は、生死にかかわるような重大な場面に何度も出くわしてきました。そこで生死を分けたのは、主に信頼され、建て上げられて預言の働きを進めている主のしもべたちのことばに耳を傾け、そのことばに正しく応答したかによったのです。

預言の働きは、主の家の礎石(エペソ二・二〇参)を据えるためにはなくてはならないものであり、もし主の宮(教会)を建てようと思うなら、必要不可欠なものです。預言の働きを今日の時代によみがえらせることが目標なのではありません。預言はもっと高い目標、すなわち私たちが主の御住まいとして整えられるためにあるのです。もし主が目指しておられるこの最終的な目標を見失ってしまったら、私たちはもっと次元の低い目標に満足してしまって、より次元の高い目標を目指すことができなくなってしまうでしょう。

《序論 終》

リック・ジョイナー著『収穫』2000年7月14日発行(角笛出版)P. 4-19より
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どう思われますか?

私達は全員罪を犯しており、神の裁きにふさわしい者達です。しかし、父なる神様は彼の独り子を信じる者達のための裁きを満たすためにキリストを送られました。創造神かつ永遠の神の息子であるイエスは、罪のない人生を送られたのですが、私達が受けるはずだった罪の罰の身代わりとして死んで下さったほどに私達を愛しておられます。彼は葬られ、聖書に書かれている通りに死人の中から甦られました。もし、あなたがこのことを本当に信じ、心から信頼するなら、イエスのみをあなたの救い主として受け取り、「イエスは主です」と宣言して下さい。そうすれば、裁きから救われ、天国で神様と共に永遠を過ごすことになります。


あなたはどう応答されますか?

もしあなたがクリスチャンではなく、今クリスチャンになりたいのであれば、ただこう言って下さい。「主イエス様、私の罪を赦して下さり感謝します。今日、私はあなたに従うことを決めました。私をあなたの家族の中に受け入れて下さい。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」


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詳しくは以下のリンク先を参照して下さい。
👉【福音】新しく生まれ変わる!(新生の祝福)
https://note.mu/risingdestiny/n/nb11945f61b7a

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【預言の学び】預言とは&個人預言を受ける際の注意点(改訂版)
イエス様もなさった個人預言 の聖書の実例の解説、現在の個人預言の映像リンク集付き
https://note.mu/risingdestiny/n/n916fab966ed5


【なぜ、ライジング・デスティニー(シャイニング・デスティニー)を始めたのか(過去20年間の日本宣教史年表付) 】
【The Reason We started Rising Destiny (Shining Destiny): The History of Japanese Mission in the Past 20 Years】
https://note.mu/risingdestiny/n/nc415e4303df2

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