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御霊に満たされるには

御霊に満たされるには
Transferable Concept(伝達可能な概念)
How to Be Filled with the Spirit
『TCシリーズ3.御霊に満たされるには』ビル・ブライト著、1994年6月1日 第2刷発行、C.C.C発行、定価258円(本体250円)※現在絶版、より引用

英語版リンク(What Does it Mean to be Filled with the Holy Spirit?
Bill Bright)
https://www.cru.org/us/en/train-and-grow/transferable-concepts/be-filled-with-the-holy-spirit.4.html
Adapted from the Transferable Concept: How You Can Be Filled With The Holy Spirit, by Dr. Bill Bright, co-founder of Campus Crusade for Christ. © Cru. All rights reserved.

御霊に満たされるには

『御霊に満たされるには』という私の話を聞いたあとでアメリカの指導的な教会を牧する経験豊かな牧師が言いました。「今晩から、私の生き方は今までとは変わります。私は20年間以上も牧師をしてきましたが、今まで御霊に満たされ、支配されるということが、どんなことか本当にはわかっていませんでした。早くこのことを私の教会員にも話してあげたいものです。」
■図P.3

一人の引退した実業家と彼の妻が、はるばる私の事務所を訪れて言いました。「あなたの御奉仕の結果、私たちは御霊に満たされる方法を知りました。その時私たちの生活は変わりました。私たちは、今ではどこへ行っても、他の人にキリストをおわかちしています。こんどは、テレビでも、御霊に満たされる方法を話してくださるようにお願いにあがりました。あなたの単純なアプローチが、私たちに届いたので、今度は多くの他の人たちをお助けしたいのです。」学生や教師やレイマンが、御霊に満たされるのは信仰による、という聖書に基づくすばらしい真理を発見した結果、このようなケースが幾千となく起こっています。

大切な発見
あなたがまだ、信仰によって御霊に満たされることを学んでおられないのでしたら、クリスチャン生活にとってこの最も大切なことをぜひ発見なさってください。
私たちの主が、天にあげられる前に、オリブ山で弟子たちにお話しになった最後のことばを注意深く考えてみてください。イエスは弟子たちに全世界に行って福音を宣べ伝え、すべての国民を弟子とするようにお命じになりました。しかし、聖霊に満たされるまで、エルサレムにとどまるように言われました。「しかし、聖霊があなたがたに臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)
■図P.4

この言葉で、イエスは、「あなたがたは3年間以上もわたしと共にいましたが、わたしが群集を教えるのを聞き、わたしが病人をいやし、死人をさえよみがえらすのを見ただけでは十分ではありません。世界中でわたしの証人として効果的に実を結ぶためには、聖霊によって力を受けなければならないのです。」ということを意味されたのです。

伝道する力
ある時、私が話をした後で、一人の学生が相談に来ました。彼は大変打ちひしがれた思いを持っていました。数ヶ月間、彼は、少くとも一日3時間聖書を読み、祈り、伝道しましたが、だれも信仰の決断をするに至りませんでした。しばらく話しているうちに、彼の問題点が明らかになりました。ーー彼は聖霊に支配され、力づけられていなかったのです。もちろんそうありたいと願ってはいましたが。
それで私たちは、共に祈り、神のみことばの権威に従って信仰によって聖霊の力を受け取りました。その日、彼は初めて他の人をキリストに導くという経験をしました。翌日も他の人をキリストに導き、それ以来、多くの人々を主に導きました。明らかに彼の生活はまったく変えられたのです。
大変成功している実業家がアローヘッド・スプリングスの本部に、訓練のために来ました。彼は牧師の息子で、教会の良い影響のもとで育てられ、何年も日曜学校の教師をして、校長にもなり、執事でもあり、アメリカの指導的な神学校の理事会の理事であり、全米の彼の教派内のレイマンの代表でもあったのです。
しかし、彼は自分で他の人をキリストに導くことなど考えた事もなかったのです。

伝道活動倍増
訓練中、彼は、信仰によって聖霊に満たされるということと、他の人をキリストに導く方法とを学びました。その時から、何百人もの人をキリストに導き、キャンパス・クルセードの平信徒伝道研修会を通して、何千人ものレイマンや牧師を訓練しました。そして彼が訓練した人がまた多くの人々をキリストに導きました。
1,500人の教会員を持つ教会の牧師がアローヘッド・スプリングスで開かれた牧師のための伝道研修会で、聖霊の満たしを受け、他の人をキリストに導く方法を学びました。ある日の午後、伝道に出かけ、この牧師が話した15人の内、14人がキリストを受け入れる祈りをしました。彼がこんな経験をしたのは初めてのことでした。彼は全く新しくされて自分の教会に帰って行きました。間もなく、彼の教会の人々が、牧師と同じように、信仰によって聖霊の満たしを受けました。今では、キリストに対する熱意を他の人に分かち合っており、彼らの伝道を通して更に多くの人々が救い主を信じるようになっているのです。
■図P.6

大いなる冒険
クリスチャン生活は大いなる冒険です。それは目的と力のある人生です。キリストは信じがたいほどの約束をしてくださいました。すなわち、「わたしを信じる者はわたしの行うわざを行い、またそれよりも大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。……」(ヨハネ14:12-13)
私たちにできるとキリストが約束されたこの大きなわざを、肉の力ではやれないことは明白です。この大きなわざをできるように、聖霊によって私たちを力づけてくださるのは、復活の力を持って私たちの内側に住み、私たちの体を用いて動き、私たちの知性を用いて思索し、私たちの心を通して愛し、私たちの唇を用いて語られるキリスト御自身なのです。人々を救い主のもとに導くのは、私たちの知恵、弁説、論理、人格、説得力ではないのです。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。イエスは、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19)と言われました。キリストに従う事は私たちの責任ですが、私たちを人間をとる漁師にするのは、キリストの責任です。第一世紀のクリスチャン達は、聖霊に支配され、力を与えられ、神の愛に満たされて、世界をくつがえしました。
弟子たちは、聖霊に満たされた時、神の超自然的な力を受け、憶病な人間から、輝かしいキリストの証人に変えられました。彼らは、歴史の行程を変えるために神によって用いられたのです。そして、あの全能の力、聖霊の力は、あなたがイエス・キリストのために、清い、実りのある人生を送ることができるように、あなたにも提供されているのです。

聖霊に関しての無知
しかし、悲劇中の悲劇とも言えることに、聖霊とは誰か、ということさえ知らないクリスチャンが大ぜいおり、また、誰かということは知っていても、その力の受け取り方を知らない場合が多くあるのです。したがって、彼らは、信じる者にキリストが約束された豊かな実りある人生を体験することなく生活しています。
今日の教会と一世紀の教会との大きな相違を思い浮かべざるを得ません。J.B.フィリップスは『若い教会への手紙』の序論で以下のように述べています。
「今日のキリスト教と、これらの手紙(新約聖書の中の手紙)に書かれているキリスト教との大きな違いは、我々にとってはおもに儀式であるキリスト教が、彼らにとっては現実の体験だったという点である。我々はキリスト教を規則か、せいぜい、心と生活の信条程度にしてしまう傾向があるが、彼らにとっては、それらは明らかに全く新しい命が生活の中に入って来ることだった。彼らはこの体験を表現してキリストが彼らの内に住んでおられると言ったのだ。」

一世紀の力
一世紀と同じ力ーー聖霊を通して知らされる力、復活し、生きて、私たちの内に住まれるキリストの力ーーは今日でも私たちに提供されているのです。あなたはこの力を御存知ですか。勝利のある、実り多いあかし人になっておられますか。もしそうでなかったら、そうなることができるのです。このようなわけで、クリスチャンの為に最もたいせつなメッセージは、御霊に満たされた生活に関するものだと、私は思うのです。私は世界中の多数のクリスチャンにこの真理をおわかちしてきましたが、多くの人々の人生を変えるのに、このメッセージほど、神に用いられたものはほかにはありません。
もしあなたが、イエスが約束され、クリスチャンとして受け継げるはずの豊かな人生をまだ体験しておらず、他の人にキリストを伝えておらず、そして心からそうしたいと願っておられるのでしたら、そのあなたに良い知らせがあります。

聖霊に関する質問
次の質問に回答が得られれば、あなたは、聖霊に満たされた生活を知り、又体験できるようになることでしょう。Ⅰ.聖霊とはどんなお方なのでしょうか。Ⅱ.聖霊は何のために来られたのでしょうか。Ⅲ.聖霊に満たされるとはどんなことなのでしょうか。Ⅳ.なぜ多くのクリスチャンは聖霊に満たされていないのでしょうか。Ⅴ.どのようにして聖霊に満たされることができるのでしょうか。


Ⅰ.聖霊とはどんな方なのでしょうか

聖霊は神です。彼は、物ではないし、単なる神的影響力といったものでもありません。彼は、お化けや概念でもありません。聖霊は神です。ーー神のすべての属性を持っておられます。彼は三位一体の第三位格です。ーー父なる神、神なる神と同等のお方です。神は唯一のお方ですが、御自身を三つの人格で顕現なさいます。
私は三位一体を定義することはできません。誰も完全にはできないでしょう。私の神学校時代の教授のひとりがある時、次のように言われました。「三位一体を否定する者は、魂を失う。三位一体を理解しようとする者は、理性を失い、狂人となる。」と。私たちは有限ですから、無限な神を理解することはできないのです。
三位一体の概念を例話を用いて説明しようとしても、不適切な説明しか出来ないのです。たとえば、人間は、肉体、知性、霊魂を持っていますが、どの部分が人間なのでしょうかと言うことができます。あるいは、水、氷、蒸気のいずれであるかに従って、H2Oは、液体、固体、気体であると説明できます。どの状態が、H2Oなのでしょうか。あるいは、一人の人間が夫であり、父であり、息子でありえます。どの例話も適切だとは言えません。せいぜい神がどんなお方らしいかを提示できるに過ぎません。


II.聖霊は何のために来られたのでしょうか

聖霊は、キリストに栄光を帰し、クリスチャンをすべての真理に導くために、この地上に来られました。主イエスは十字架におかかりになる夜、弟子たちに言われました。「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主あなたがたのところに遣わします。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。……また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を表わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16:7, 13-14)
聖霊は、人を新しく生まれ変わらせることによってその人にキリストを知らせ、イエスを信じる者すべてに約束されている豊かな人生を生きさせ、又それを他の人々にわかちあう力を与えてくださるのです。

真理を現わす
聖霊は、ある特定の人々に聖書を書くようにと霊感を与えられました。聖書を読むと、聖霊によって神の真理が私たちに示されます。前に何度も読んだ聖書の箇所でも、その時に応じて、必要な真理が生き生きと教えられます。なぜでしょうか。聖霊が、私の必要に応じて、神のことばを適切に、意味あるものとしてくださるからです。聖書は聖霊によって霊感を受けた生きた書物なので、聖霊によって支配された人だけが聖書を理解することができます。(※Ⅰコリント2:10)
私がどんなに祈っても、告白の祈りは別として、もし私が御霊によって歩んでいるのでなければ、神が祈りに答えてくださることを期待はできません。私が聖霊に支配されていなければ、伝道しても人々は福音を信じません。
牧師をやっている一人の友人が言いました。「私は聖霊に関するそのような話は好きではありません。私の好きなのは、キリストについて語ることです。」と。私は聖霊がこられた理由は、まさにキリストを高め、彼に栄光を帰すためであったことを思い起こさせました。(※ヨハネ6:1-15)
人を造り変える聖霊の働きがなければ、人はキリストについて知ることさえできません。ナザレのイエス御自身が、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5)と言われました。神の聖霊を離れては、私たちは祈ることも、清い生活を送ることも、伝道することもできません。ーー聖霊によって私たちは神へ奉仕ができますし、又、神も聖霊の力によって私たちを変えてくださるのです。


III.聖霊に満たされるとはどんなことなのでしょうか

聖霊に満たされるとは、キリストに満たされることです。聖霊はキリストに栄光を帰すために来られました。したがって、私が聖霊に満たされていれば、キリストにとどまっているのです。キリストが光の中におられるように、私も光の中を歩んでいるのです。(※Ⅰヨハネ1:7)イエス・キリストの血潮はすべての不義から私を清め、清め続けてくださいます。(※Ⅰヨハネ1:9)私はキリストに支配されています。なぜなら、“満たす”ということばは、支配されることを意味するからです。ーーロボットとしてではなく、御霊に導かれ、力を与えられた者として。そして、もし私がキリストによって支配され、力づけられるのなら、キリストが私のからだを通して歩み、復活の生涯を私の内に、また私を通して生きてくださるのです。
キリストが私たちの内に生き、私たちを通して御自分の愛を現わされるというこの驚くべき事実は、神のことばに示されている最も大切な真理の一つです。聖書に示されているクリスチャン生活の標準は、非常に高く、実践不可能なのです。歴史上ただひとりのお方だけがその標準を達成されました。そのお方とは、イエス・キリストです。ですから、キリストがともにおられる時に、キリストに信頼をおく人々がキリストと同じ超自然的生活を送ることが可能になるのです。
もし、キリストが復活の力をもって、私たちの内に、また私たちを通して生きてくださることを、願うなら、私たちは霊的果実ーー御霊の実と、キリストに勝ち取られた魂ーーを結ぶようになります。健全な幹が当然、豊かに実を結ぶのと同じです。イエスは、マルコ1:17で、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われました。私たちの責任はキリストに従うことーー彼にとどまることーーです。私たちを人間をとる漁師にする責任はキリストにあります。
ヨハネ15:8で、キリストは、「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」と言われました。あなたが、たとえどんなに偉大な説教者、クリスチャンの学者、執事や長老になったとしても、又毎日教会の集会に出席し、清い、道徳的な生活を送り、聖句を何百も暗記し、日曜学校を教え、教会の聖歌隊の指揮をしたりしたとしても、もしあなたが清い生活を送るとともに、他の人にキリストを伝えることにおいて実を結んでいないのなら、神のことばによれば、あなたは御霊に満たされ、支配されているとは言えないのです。

御霊の実を結ぶには
「私は良い生活を送ることによって、キリストのあかしをするのだ。」と言う人々がいます。しかし、良い生活を送るだけでは充分ではありません。クリスチャンでない多くの人々でも立派な、道徳的、倫理的な生活を送っていますから。主イエスによれば、真にキリストに従っていることを示す唯一の証拠は、実を結ぶこと、すなわち、清い生活を送ると同時に、私たちが自分の救い主を他の人に伝え、そのことによってクリスチャンになる人が起こされることです。そして、実を結ぶには、聖霊の力により頼む以外に方法はありません。
今世紀の指導的な神学者のひとりで、有名な神学校の校長をしておられる方に、大分前のことですが、聖霊に満たされた人でキリストのことを語らず伝道しない人がありうるかどうかをお聞きしました。強く、「いいえ」と答えられました。
何を根拠として彼はそんなに強い主張をされたのでしょうか。答えは明白です。私たちの救い主は、「失われた人を捜して救うため」(※ルカ19:10)に来られたのです。そして、彼は、神の愛とゆるしの“よきおとずれ”を誰にでも、どこででも伝えるようにと私たちを「選び、任命」されたのです。(※ヨハネ15:16)私たちが自分のくちびるでキリストを伝えないということは、この命令に従っていないことになります。きよい生活を送らないことが神の命令に背いているのと同じことです。いずれの場合にも言えることは、このような人は不従順なクリスチャンであり、神がその人生を支配し、力を与えられることはありません。かつて、ある若者が「私はもう何年間も伝道していますが、成功したためしがない。どこか間違っているのでしょうか。」と尋ねました。
■図P.15

どのようにして聖霊に満たされる(支配され、力づけられる)かを説明し、彼とともに祈りました。信仰によって聖霊の満たしを受けた彼は、ただちに、神に用いられ始め、多くの人々が救い主に導かれたのです。
私たちが御霊に満たされた時には、伝道する超自然的な力が与えられるだけではなく、私たちの人格も変わり始めます。聖霊の支配と力の内を歩み続けると、御霊の実が私たちの生涯に明らかに見えるようになって来ます。ガラテヤ5:22,23で、パウロは、以下のように説明しています。「聖霊が私たちの人生を支配されると、聖霊は私たちの中に次のような実を結びます。すなわち、愛、喜び、平安、忍耐、親切、善意、忠実、柔和、自制…。」(Living New Testament 直訳)

決定的で継続的
クリスチャンと聖霊との関係には、決定的な面と継続的な面の両方があります。決定的というのは、クリスチャン生活が、わざの生涯というより信仰の生涯で、感情によるものではない(「義人は信仰によって生きる。」※ローマ1:17)ということが、わかるかわからないかという点においてです。継続的というのは、絶えず、聖霊の力と支配の中を歩むとき、その人の人生に、御霊の実が結ばれて来るという点においてです。
一言警告しておきましょう。感情的、神秘的な体験を求めないように。神秘的な印象に頼らないでください。神のことばが私たちの霊的成長の基盤でなくてはなりません。絶えず、継続的に聖霊に導かれ、力づけられるように勧めているエペソ5:18の聖句と、「キリストのことばを、あなたがたの内に豊かに住まわせ」るように勧めているコロサイ3:16の聖句とは、興味深い平行関係を示しています。
キリストのことばを内に住まわせても、聖霊に満たされても、その最終的結果は等しく、主について多く語り、「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美」(エペソ5:19)するようになるでしょう。

聖霊がみことばを説き明かします
神のことばと神の御霊との間にバランスを保つことが大切です。聖霊によって与えられる照明がなければ、私たちは神のことばを理解することができず、それは意味のないものになってしまいます。また、神の言葉があるからこそ、聖霊もこの人生を変革する真理をはっきりと語ることができるのです。
聖霊と神のことばの働きが、信者の生活の中で、適切なバランスを保っているなら、その結果として、力に満ちた大いに実を結ぶ人生が実現され、この人生の中で救い主、主イエス・キリストがすばらしくあがめられ、たたえられます。ですから、私たちが聖霊によって支配され、力づけられ、神のことばを思い、それを心にたくわえるなら、ますますキリストのうるわしさを表わし、ガラテヤ5:22,23でパウロがあげている御霊の実を結ぶようになります。a+b=cの形で言ってみれば、(私たちの主イエス・キリスト御自身のもののような性質) + (実りあるあかし)= (主が実際に私たちの内に生き、私たちを通して働かれることを示す証拠)と言えるでしょう。
ですから、御霊に満たされれば、その結果として、豊かなあふれるばかりのいのちを持った人生を送るようになることは明白です。ナザレのイエスは、かつて群衆に、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)と言われました。ヨハネは、「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(ヨハネ7:39)と付け加えています。
実に、これこそ、“豊かな人生”です。しかし、ほとんどのクリスチャンは、ほんの少ししか、この人生を体験していないのです。


Ⅳ.なぜ、多くのクリスチャンは御霊に満たされていないのでしょうか

多くのクリスチャンは、神に従って生きていないので聖霊に満たされていないのですが、その理由は大別して二つあります。第一の理由は、知識の欠如であり、第二の理由は、不信仰です。

知識の欠如
どのようにしてクリスチャンになるかがわかり、また、主イエスを信じ、従う者に与えられるすばらしい、冒険に満ちた人生がどんなものか理解できるなら、クリスチャンでない人々も、ほとんどの人がクリスチャンになると私は確信しています。神がどんなに自分を愛してくださっているかということと、キリストを受け入れると、罪はすべてゆるされ、永遠のいのちが与えられ、意味と目的のある全く新しい人生が開けるということとを十分理解して、それでもなお、キリストに「ノー」と言う人が、知能の正常な人の場合考えられるでしょうか。神の子どもは、尊厳を持ち、生きる目的を与えられた人物で、彼にとって人生はもはや単に生きている、といったようなものではありません。
しかし、クリスチャンでない人々はこれを知らず、神への不服従の中に生き続け、神の愛とゆるしを拒否しています。よく理解していないからです。これと同じことが、肉に属するクリスチャンについても言えます。彼は、聖霊が誰かということも、豊かで実りあるクリスチャン生活ーー聖霊に彼を支配し、力を与えてくださるようにお願いするとき、彼にも与えられる人生ーーが、どんなものであるかを理解していないので、あせるばかりで、実りのない人生を続けることになるのです。
私たちは霊的に誕生したときから、キリストの御姿に向かって成長し続ける力を受けているのです。しかし、多くのクリスチャンは、信仰によって生きるにはどうしたらよいかを知らないために、まるでローラー・コースターに乗ったみたいに、ある感情体験から他の感情体験へと上がったり降りたり、上がったり降りたりをくり返しています。
ローマ人への手紙、七章で、パウロは、肉に属するクリスチャンの状態を以下のように述べています。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれかこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(※ローマ7:15, 24)
■図P.19

肉に属するクリスチャン
Ⅰコリント三章で、パウロは肉に属するクリスチャンについて書いています。このようなクリスチャンはたいていみじめな人です。ーー未信者よりもっとみじめとも言えます。神と交わる喜びと祝福とを体験しながら、今や生きた神との接触を失い、交わりの回復方法を知らずにいるのです。しかし彼は、古い生き方には決して満足できず、幸福や充実した生き方を求める中で、キリスト中心に生きず自己中心になってしまっているのです。
その結果、彼はますます混乱し、あせり、どうしたらいいか分からなくなってしまうのです。彼は、信仰によって生きることを知らず、感情によって生きています。
彼は、神を信頼するより、自分でやってみようとするのです。彼は、肉に属するクリスチャンを脱皮して、御霊に属するクリスチャンになる方法を知らないのです。彼を変えることのできるただひとりのお方は、もちろん、聖霊です。
主イエスは、自分がこの地上に肉体をとって生きておられた時になさった以上のわざをクリスチャンがすることができるとおっしゃったことを心にとめてください。このような生活はどのようにして実現可能になるのでしょうか。聖霊の力による以外に道はありません。
このことを考えてください。クリスチャン生活は、奇跡的で、超自然的な生活です。キリスト教の本質は、私たちが神のために何かをすると言うのではなく、神が私たちのために何かをしてくださることにあります。キリストを信じることなくして、クリスチャンになることはできませんし、キリストに一瞬一瞬信頼し続けることになくして、クリスチャン生活を送ることはできません。私たちが聖霊に満たされるとき、キリストが私たちの内に、私たちを通して、神の超自然的ないのちを生きてくださるのです。

霊的貧困に生きている
しかし、多くのクリスチャンは、信仰によってキリストの復活の力の源からこのような豊かさをくみあげるにはどのようにしたらよいのかを知っていません。その結果、霊的貧困の中に生き、キリストにある大いなる富と活力源を知ることも体験することもしていません。
西テキサスに、エーツ・プールという名で知られる有名な油田があります。恐慌時代に、この油田は、エーツという名の人の牧場でした。エーツ氏は、経営困難に陥り、借金と利子が払えなくて、その土地を手放さなければならないはめに陥りかけていました。衣・食を得る金もないので、彼の家族は、他の多くの家族同様、政府の生活保護を受けていました。
来る日も来る日も、なだらかに起伏する西テキサスの丘の上で、羊に草を食べさせながら、彼はどうして借金を払おうかと悩んでいたに違いありません。ところがある日、油田会社から地盤調査の一行がその地方にやって来て、エーツ氏の土地に油が出るかもしれないと言い、石油井戸を掘る許可を求めたので、彼は契約書にサインしました。

豊かな資源
1,115フィートの地下に、大きな油田がありました。最初の井戸から、毎日80,000バレルの油が採れました。それに次いで掘られた井戸には、最初の井戸の二倍以上もの油のあるものがいくつもありました。その発見後30年経って、政府がその井戸の一つを調べたところ、実に、まだ一日に125,000バレルの油が出る可能性があることがわかりました。エーツ氏がこれを全部所有していたのです!彼はその土地を買ったときに、油とその他の鉱物などの権利を受け取ったのです。しかし、彼は生活保護を受けて貧しく暮らしていました。億万長者が貧困の中にいたのです。
何が問題だったのでしょうか。彼が、石油があることを知らなかったからです。彼はそれを持っていましたが、ほんとうに自分のものにしていませんでした。クリスチャン生活をたとえるのにこれ以上に適切なたとえを他に知りません。キリストを信じて神の子となった瞬間から、私たちは神の相続人になり、彼の財産はすべて私たちが用いることのできるものとなるのです。私たちが神の人となり、キリストの実りある証人となるのに必要なものはすべてーー知恵も愛も力も私たちに与えられているのです。しかし、ほとんどのクリスチャンは、自ら招いた霊的貧困の中に生きています。
それは、すでに自分のものになっている霊的資源を神から受け取るにはどうしたらよいか、その方法を知らないからです。石油が発見される前のエーツ氏のように、彼らは、巨大な富があることも知らずに生きているのです。

信仰の欠如
クリスチャンが聖霊に満たされていない理由は、知識の欠如によるものだけではありません。彼らの多くは、基本的に神の真実を信じてもいないのです。彼らの多くは、基本的に神の真実を信じてもいないのです。神は信頼することのできる方であると示されているのに、種々の理由で、神の愛がわからないままでいるクリスチャンがたくさんあります。彼らは神を恐れているのです。単純に神に任せることができないのです。
任せるというのは信仰の表現です。そして「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル11:6)あなたの子供がやってきて、「お父さん、お母さん、私はあなたがたを愛してなどいません。もうこれからはあなたがたに私を任せてはやっていけません。」と言ったとしたら、どんな気持ちになるでしょうか。これ以上あなたを傷つけるものはないと思います。しかしことばではないとしても、私たちのほとんどが、態度や行動ではこれと同じことを神に対して言っているのです。私たちは口先で神を敬いますが、神が存在していないかのように生きています。神のことばに記されている神の約束を信じることを拒否しているのです。
神は不可能なことを自分に要求されるのではないかーー自分の計画を変更させ、財産を捨てさせ、生活の楽しみを取り上げ、悲劇を耐えぬくように強制し、等、等ーーと心配して、クリスチャンになるのを恐れる人がたくさんあります。
優秀な成績で神学校を卒業した立派な若い牧師が、かつて私に言ったことがありました。「私は神が私をどのようになさるかが不安なので、自分の生涯を神にすっかり明け渡してはいません。」それから彼は、数年前、自分がキリストに全生涯をゆだねたら、自分の両親が悲劇的な事故で死ぬだろうという不吉な予感がしたときのことも話してくれました。彼の両親が死ぬかもしれないーー神はこのような肉親の死という体験を用いて自分をためし、自分の献身の純粋さを調べようとしておられるのではないかーーという不安から、彼は神に「はい」と言うのが恐ろしかったのです。

神は信頼に値するお方です
愛の神が、こんなことをなさるとお思いですか。こんな風に考えさせるのは誰のしわざだと思いますか。確かに神ではありません。それはサタンです。サタンが昔アダムとイブに言ったように、「神は信頼できない。」とささやいているのです。しかし、私は断言します、「神は信頼できる。」と。神はあなたを愛しておられます。信頼に値するお方です。
もし私のふたりの息子が次のように言ったら、私はどんな態度を取ると思いますか。「ねえ、お父さん、僕たち、お父さんが大好きだよ。僕たち、生きている間中、お父さんの言うことは何でもするよ。」と。
神に生涯をゆだねると、神はきっと次のような態度で反応を示されると多くの人が信じこんでいるとしか私には思えません。その態度とはこういうものです。私は息子達の肩をつかみ、ゆさぶり、きびしく彼らをにらみつけて、「お父さんは、お前たちがこう言うのをずっと待っていたんだ。お前たちの生きている間中、こんな決心をしたことを後悔させてやるからな。おもしろいことはみんな取り上げてやる。持っている物は皆捨てなさい。やりたくないことばかりやらせてやろう。」という態度です。
多くの人は、神に、「主よ。私はあなたの支配にゆだねます。」と言うと、こんなふうに神は応じられると思っています。彼らは、神がどんなに自分たちを愛しておられるかを理解していないのです。もし私の息子が、私に上記のように言いながらやって来たら、私はどうすると思いますか。私は彼らを、抱いて、「お父さんもお前たちを愛しているよ。お父さんを好きだと言ってくれてほんとにうれしいよ。そのことばが何よりもすばらしい贈り物だよ。」と言うでしょう。

神はあなたを愛しておられる
神は神の子供たちをそれ以上に愛し、配慮してくださらないでしょうか。いいえ、神はご自身が愛であることを何度も何度も明らかにされました。神は信頼に値するお方です。イエスは、「してみると、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供にはよい物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちによい物をくださらないことがありましょう。」(マタイ7:11)と保証しておられます。
多くの学生や成人たちが、自分たちの人生における神の御心に関して私のところに相談にやって来ます。しばしば彼らは神が彼らに対して何を要求されるか恐れています。私はたいてい、彼らに尋ねます。「神があなたを愛しておられることを信じますか。神はあなたの人生にすばらしい計画を持っておられることを信じますか。あなたが神を信頼するなら、神はあなたの人生を導き、祝福を与える力を持ちですか。」と。答えはいつもきまって、「はい。」です。すると私は尋ねます。「今ここで、神にお任せして、導きと力をいただき、聖なる生涯を歩みたいとお思いになりませんか。キリストのための実を結ぶ証人になりたいとお思いになりませんか。」と。この時までには、彼らのほとんどが、ためらわず、神に対して肯定的に答える心の用意ができています。疑いの念は、魂の敵によって引き起こされたものであることを悟り始めたのです。

神は祝福をもって報いてくださる
あなたの生涯をキリストにささげたら、自分はどうなるのだろうかと心配する必要はありません。あなたは神が楽しみを奪い、職を捨てさせ、富を取り去り、友情や恋愛を終わらせるのではないかと恐れているかもしれません。また、神があなたを世界の果てに宣教師として派遣し、そこで、あなたは神のために命を捨てなければならないことになると恐れておられるかもしれません。
神はこのようなことをするようにお命じになるかもしれませんし、また、なさらないかもしれません。もし、お命じになったら、それを特権として喜びなさい。なぜなら、神は自分に信頼し、従う者を常に祝福なさるからです。私が出会った最も幸せな人々の中には、世界の果ての原始的な地域でキリストに仕えている人々があります。キリストに従うために名声や財産を捨てた人たちもあります。聖書は、「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(歴代誌I 16:9)と教えています。
あなたは神を信頼しても良いのです。もし神が捨てるように導かれたなら、それを捨てないで持ち続けるより、はるかにまさった祝福を与えようとしていてくださるからなのです。神だけが信頼に値するお方です。キリストのところへ自由に行き、「主よ。私はここにおります。私の生涯を用いてあなたの栄光を表わしてください。」と告白なさるようにお勧めします。神があなたに何をなさるかということを恐れる必要はありません。ヨハネ4: 18では、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」と神は私たちに告げておられます。神のことばと幾世紀にもわたる多くの人々の体験は、私たちが人生のすべてを神にゆだね得ることを保証しています。


Ⅴ.どのようにして聖霊に満たされることができるのでしょうか

私たちは信仰によって御霊に満たされます。どのようにしてあなたはクリスチャンになったのでしょうか。信仰によってです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8-9)
■図P.28

「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたものですから、彼にあって歩みなさい。」(コロサイ2:6)私たちは信仰によってキリストを受け入れました。ですから信仰によって歩むのです。私たちが霊的に誕生した時から死ぬまで、神から受けるすべてのものは信仰によるのです。あなたは、聖霊に満たされたいですか。あなたがどこにいても今すぐに信仰によって聖霊に満たされることができます。
聖霊に満たされるように神に哀願する必要はありません。断食をしたり、泣いたり、哀願したりして神と取り引きする必要はありません。長い間私は、断食したり、聖霊に満たしてくださいと叫び求めていました。それからある日、聖書から、「義人は信仰によって生きる。」(ガラテヤ3:11)ということを見いだしたのです。私たちは、神の満たしを、自分の努力によって獲得するのではありません。信仰によって受けるのです。たとえば、100万円の小切手を現金にする時、数千万円の預金をしている銀行へ行って、カウンターに小切手を置き、ひざまずいて、「どうぞこの小切手を現金にしてください。」と哀願はしません。あなたは、信じて出かけ、カウンターに小切手を置き、すでにあなたのものであるお金が手渡されるのを待ちます。それから係りの人にお礼を言って出て行きます。
何百万ものクリスチャンが、私がかつてしていたように、既に提供されているもの−−信仰によって受け取られるばかりになっているもの−−を神に嘆願しています。彼らは自分のそのような態度が神を侮辱するものであることを悟らずに、ある種の感情的体験を求めているのです。そういう態度は神を喜ばす信仰を否定しているものです。

心の備え
あなたは、ただ信仰だけによって聖霊に満たされるには違いないのですが、聖霊に満たされるためにあなたの心を整えるのに役立ついくつかの要因があることを知っておくことが大切です。
第一に、主に喜ばれる人生を送ることを願わなければなりません。「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)
第二に、ローマ人への手紙12章1,2節に示されている神の命令に従って、あなたの生涯をキリストに喜んでささげなさい。「そういうわけですから、兄弟たち。私はあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみ心は何か、すなわち、何がよいことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

すべての罪を告白すること
第三に、聖霊が思い出させてくださった、すべての罪を告白し、Ⅰヨハネ1:9に神が約束された、きよめとゆるしを体験しなさい。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪をゆるし、すべての悪からきよめてくださいます。」
もしあなたが兄弟に対して不正を働いたり、あなたのものでないものを取ったりしていたら、聖霊が、償いをするようにーーあなたのあやまちを正すようにーー迫られるかもしれません。そうしたら、その声に従いなさい。そうしないと、神の祝福を失います。聖霊の満たしという祝福は、喜んで神に従う者にのみ、与えられるからです。
イエスは、「わたしの戒めを持っており、それを守る人はわたしを〈ほんとうに〉愛する者である。わたしを〈ほんとうに〉愛する者はわたしの父に愛される。わたしも〈また〉その人を愛して、彼にわたし自身を示す……〈わたし自身を彼にはっきり示す。〉」(ヨハネ14:21詳訳聖書)と約束してくださいました。
もう一度申しますが、私たちが満たされたいと願ったからとか、罪を告白したり、私たちのからだを生きた供え物としてささげたからといって聖霊に満たされるのではありません。信仰によって満たされるのです。以上のことは信仰によって聖霊に満たされるための備えをするのに役立つ要素にすぎません。

命令と約束
二つの非常に大切な、心にとめるべきことばがあります。第一は命令です。エペソ5:18で神は満たされるように命じておられます。「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」聖霊に満たされず、支配されず、力づけられないことは神への不従順です。もう一つのことばは約束です。ーーこの命令を実行可能にする約束です。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。"私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(Iヨハネ5:14-15)
では、あなたが聖霊に満たされ、支配されるのは神のみこころですか。もちろん、そうです。神がそう命令しておられるのですから。それなら、今ただちに満たされるように神に求めることができます。ーー満たされる資格があるからではなく、神の約束に基づいてです。
■図P.31

あなたがクリスチャンなら、聖霊はすでにあなたの内側に住んでおられます。したがって、あなたの内に聖霊を招き入れる必要はありません。あなたがクリスチャンになった時、すでに入って来ておられ、イエスは決してあなたを離れないと約束されました。(※ヘブル13:5)あなたがキリストを受け入れた瞬間に、聖霊はあなたの内に住むために来られただけでなく、神の子供としてあなたを新しく生まれさせ、霊のいのちを与えられたのです。聖霊はまた、キリストのからだに連なるよう、あなたにバプテスマを授けられました。Iコリント12:13でパウロは、「私たちはみな、…… 一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け……」と説明しています。
一つの御霊の内住があり、御霊による一つの生まれ変わりがあり、御霊の一つのバプテスマがあり、ーーこれらはみな、あなたがキリストを受け入れた時に起こります。しかしながら、聖霊に満たされるということは、一生に一度だけの体験ではありません。エペソ5:18で明らかにされているように、何回も体験するものなのです。原典のギリシャ語を見ると、この命令の意味がはっきりします。この神の命令は、絶えず、継続的に、生活の中で聖霊に満たされ、支配され、力づけられなさい、ということを意味しています。
厳密に言えば、聖霊に満たされるように祈る必要すらありません。聖霊に満たされるために祈るように教えられている箇所はないのですから。私たちは信仰によって満たされます。しかし、私たちの信仰の対象は神と神の御言葉ですから、神の命令と約束に信頼を置いていることの具体的な表現として聖霊に満たされるよう祈ることを提案します。祈るから満たされるのではなく、信仰によって神が聖霊に満たしてくださると信頼するから満たされるのです。
ローマ人への手紙8章にある、「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8:7)という聖句を読み、ある日私はこの上ない解放感を味わいました。私は神に喜ばれるのにふさわしくあろうとして自分で努力していましたが、できませんでした。聖書は、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」(エレミヤ17:9)と教えています。したがって私は、自分の努力で神に喜ばれることはできません。神を喜ばせる唯一の道は信仰によってです。パウロはこのことをガラテヤ人への手紙の中で述べています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のために御自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

新しい主人ーー新しいいのち
聖霊の支配のもとに、信仰によって歩む人は新しい主人を持ちます。主イエスは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12:24)と言われました。私が自分自身を支配して、同時に聖霊に支配されていることができないことは明白です。私が王座を占めていれば、キリストが支配なさることは不可能です。ですから私が王座を降りなければなりません。
このことは信仰を必要とします。私の意志の表現として、祈りにおいて私は人生の王座をキリストに明け渡し、信仰によってきよい、実りのある生活を送るために神の力により頼みます。
エペソ5:18の命令は、毎日、絶えず聖霊に満たされ、導かれ、力づけられなさいと、すべてのクリスチャンに与えられたものです。そして1ヨハネ5:14,15の約束もまた、すべてのクリスチャンに与えられたものです。神の御心にかなった願いをすれば、神は聞いてくださり、かなえてくださるのです。神の御霊に満たされるように祈れば、神は聞いて、かなえてくださいます。神はあなたを聖霊で満たしてくださいます。

感情に頼らないようにしなさい
感情的な体験や、何か劇的なことが起こらなければならないと考えないでください。あなたはどのようにしてキリストを受け入れましたか。感情的な圧迫を加えられたからですか。感情的なものも含まれていたかもしれません。しかし、究極的には、あなたの感情に体験したからではなく、あなたが信じたから、クリスチャンになったのです。なぜなら、聖書は、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8)と教えているからです。
感情的に何かを体験したとすれば、それは信仰を表明したことと、服従の行為をしたことの副産物として出てきたものです。聖霊が与えられるのは私たちに感情的な体験を持たせるためではなく、きよい生涯を送らせ、キリストのために実りある証人とならせるためです。ですから、あなたが感情的な体験を持つか否か問題ではありません。
■図P.35

あなたは神の要求なさる条件を満たしていますか。あなたは義に飢え渇いていますか。あなたは聖霊に支配され、力づけられたいと心から願っていますか。もし、そうでしたら、今、ただちに、頭をたれ、以下のような信仰の祈りをなさることをお勧めします。聖霊に満たしてくださるよう神に求めなさい。哀願などしないで、ただ次のように祈ってください。
「愛する天のお父様、私はあなたを必要としています。今まで私は自分勝手に生き、その結果、あなたに対して罪を犯して来ました。キリストが十字架上で死なれたことによって、私の罪をゆるしてくださったことを感謝します。私は今キリストが私の心の王座を占めてくださることを願います。聖霊に満たされるようにあなたが命令なさったとおりに、また信仰によって求めるなら答えてくださると、みことばによって約束してくださっているとおりに、今、私を聖霊によって満たしてください。主イエス・キリストの権威と御名によって祈ります。あなたが私を聖霊で満たし、私の人生を支配してくださったことを感謝します。この感謝は、私の信仰の表現です。」
もし、この祈りがあなたの心からの願いを表現したものであるなら、神が答えてくださったことを確信してよいのです。ただ今、この時から、あなたは聖霊の偉大な、無尽蔵な供給源から力を受け始め、きよい生涯を送ること、主イエスの主張と愛とゆるしをどこででも、誰とでもわかちあうことができるようになるのです。聖霊に満たされることは、一つの具体的な生き方であることを心にとめてください。私たちは聖霊に絶えず支配されるように命じられています。一日を始めるにあたり、聖霊に満たしてくださる主に感謝し、そして一日中、一瞬一瞬あなたの生活を支配してくださるように願い続けなさい。これは神の子供としてあなたの受け継ぐ分です。

満たされて伝道すること
私たちが聖霊やな満たされる第一の目的は、私たちの生活を通し、また、語ることばによってキリストの証人となることです。主が弟子たちに語られた最後のことばを心にとめてください。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)
ペンテコステ以来最大の霊的覚醒が、私の考えでは、すでに始まっています。歴史の流れを変え、堕落したローマ帝国をひっくり返したこの偉大な力の源を、現在多くのクリスチャンが発見しています。あの時と同じ力、聖霊の力が、この世代の信仰深い、従順なクリスチャンを通して働き、私たちの世界は変わり、この世代に大宣教命令は達成されようとしています。

(終)

『聖霊に満たされるには』は伝達可能な概念であることを心にとめてください。あなたがこれに精通し、この真理を「他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだね」(Ⅱテモテ2:2)始めるようにお勧めします。

『TCシリーズ3.御霊に満たされるには』ビル・ブライト著、1994年6月1日 第2刷発行、C.C.C発行、定価258円(本体250円)※現在絶版、より引用

☆ダイジェスト版で復習する!☆
👉■【聖霊様に満たされるには】■
https://note.mu/risingdestiny/n/ncc77ef2a361f


英語版リンク(What Does it Mean to be Filled with the Holy Spirit?
Bill Bright)
https://www.cru.org/us/en/train-and-grow/transferable-concepts/be-filled-with-the-holy-spirit.4.html
Adapted from the Transferable Concept: How You Can Be Filled With The Holy Spirit, by Dr. Bill Bright, co-founder of Campus Crusade for Christ. © Cru. All rights reserved.

聖書 新改訳©新日本聖書刊行会

【福音】新しく生まれ変わる!(新生の祝福)
https://note.mu/risingdestiny/n/nb11945f61b7a


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