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BIG LOVE

体が触れた瞬間、強い反発が返ってきた。いつから身構えていたのだろうか。そして何から?

おっさんを、駅のホームに向かうエスカレーターで突き飛ばした。

私の住む東京では、エスカレーターの右側は静止する人用、左側は歩いて昇る人のために空けておくのがルールである。買い物を終え、私は駅まで猛ダッシュした。発車の時刻が迫っていた。やっとの思いで辿り着き、ホームに昇ろうとエスカレーターに差し掛かった瞬間に、私の目は瞬時におっさんを捉えた。ただ一人、彼はエスカレーターの真ん中で仁王立ちの姿勢をとり、左も右も開ける事なく、全面を占拠していたのである。

もしあなたが目の前の椅子に座ろうとした時に座席に物が置いてあったら、あなたは特に躊躇いもなくそれをどかすだろう。そのような自然さで、私はおっさんを突き飛ばし、自らが進む道を作った。

「ぼんやり突っ立ってる人は右側へどうぞ。」

私はおっさんを突き飛ばした。おっさんは猛烈に対抗してきた。自分の身体を私のそれに押し付け、意地でも真ん中から動こうとしない。くそっ、くそう、と呟きながら。私もおっさんも、醜く低俗であった。私は心の底からおっさんが憎いと思った。こんな奴は死ねばいいと思った。渾身の力を込めて、私はおっさんを跳ね返した。おっさんは、もう抵抗してこなかった。エスカレーターを登り切ったとき、申し合わせたようなタイミングで電車が来た。飛び乗り、私はおっさんを残して駅を離れた。最低の気分だった。

一連のおっさん・インシデントは、私に粘着した。飲み込めない思いが消えなかった。私はおっさんの身体を隅へ押しやったが、あの時私が横へなぎ倒してしまったものは、身体だけではないはずだった。それはおっさんの主張だった。おっさんはなぜエスカレーター真ん中にいたのか。反撃に至るまでの異常な素早さが気になった。まるで背中に目が付いているかのように、私を一瞬で拒否した。

おっさんは、あの時極度の緊張状態にあったのではないか。自分の行為の情けなさを知っていて、常に内心、そんな自分への言い訳を並べ続けているのではないか。でも止められない。人と対立する。自分の方から一歩引き、争いから身を離せば良いのにそれが出来ない。さらに意固地になる。相手の顔を正視せず、敵とみなして攻撃する。自分は何も譲りたくない。その理由は分からない。

おっさんは、精神的に限界だったのかもしれない。おっさんはもう、自分一人ではもう右にも左にもいけない。真ん中に立ち続け、突き飛ばされ、後ろ指を指されながら、それでもおっさんは待っている。「どうしたの?」という一言を。

おっさんを隅へやるべきではなかった。おっさんを隅へやる事は、世のあらゆるおっさん的事象;面倒な事、ルールから外れた事、人、自分が受け入れられないもの、自分には関係がないと思われるものを、見えない場所へ追いやる姿勢である。

面倒は避けたい。週5日の労働と生活で疲れているのに、キモいおっさんに愛など与えたくない。世の中には苦しんでいる人がたくさんいる。戦禍にいる人、苦しみと痛みに耐え、病気と闘う人、いじめられている人、いじめている人、飲み過ぎてしまう人、好きではない人と結婚してしまった人、実を言うと自分の子どもを疎ましいと感じており、強烈な罪悪感を抱いている人。気の毒だが、隣にいられるとこちらが気を遣わなければならないであろう人ばかりで面倒だ。ああ面倒だ。

他者と隣人でいる事はとても難しい。

必要なのは適切な距離だと思う。隣にいる人間はとてもリアルだ。だれかと一緒にソファーへ座っているとする。相手が立てばソファーが軋み、相手の居た場所は少しの間、微かな体温を保持するだろう。吐く息の匂い、表情。一つ一つが障る。

遠い相手は何をしているか分からない。顔はぼんやりとしか見えない。彼らは私を侵さない。私が彼らについて知ることはほんの僅かだ。それは電話越しの声かもしれないし、彼らから送られたハガキの言葉と筆跡かもしれない。私は余裕がない。たくさんの隣人を持つ事ができない。でも断片的になら、たくさんの人と繋がれるかもしれない。正面からやってくる人間をすぐに抱き留める器はないが、遠くの声に耳を傾けることは出来るかもしれない。

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