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《フーバニア国異聞》試し読み。

中央公論新社C★Novelsファンタジアから刊行されていた「フーバニア国異聞」。雨の季節にぴったりなので前半のハイライトシーンから試し読みをどうぞ。ジャンルは「博物学ファンタジー」かな?

紙の書籍は絶版ですが、電子版でお求めになれます。

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 歩きながらニアが歌いだした。
 こぬか雨、霧雨、長雨、地雨、フーバニアは雨ばかり……
 ロリンとネイリンが声を揃えて後を続ける。
 にわか雨、夕立、春雨、天気雨、フーバニアは雨ばかり!
 ぴるるるるるるるる……ぴる、ぴる、ぴる!
 ネイリンの肩の上の小鳥が歌の伴奏をするように囀り始めた。
 ぴッぴる、ぴる、ぴる、ぴぴる、ぴるぴる……
 うっとりするような佳い声だった。負けてはいられないと思ったのか、ニアのクロアシミミギツネ、アナンタが遠吠えを始めた。
 アウウウゥゥゥン、ウウウォォォン、オン、オン、オアンン……
 ちびも一緒になって鳴き出した。長く尾を引くように高低をつけた吠え声はまるで歌っているみたいに聴こえる。つられるように今度はダンタルまで地響きのような低音で吠え始めた。
 おおん、おお、おお、おおおおおおおお……
 人間と鳥と三匹の獣の合唱が遮るもののない荒れ地に高く低く響いた。
 フーバニアは水の国、空から毎日水が降る!
 水を多く含んだ大地は大きな波のようになだらかな曲線を描き、その波のてっぺんにあたる盛り上がった丘陵地帯にはごつごつとした岩が剥き出しになって突き出ている。一行が歩いているのは丘陵と丘陵を結ぶ細い稜線だ。稜線と言っても、荒れ地の『底』より僅かに高くなっているだけなので注意して見ないとどこにあるのか分からない。だが、確実に他の場所よりも乾いていて硬かった。
 ネイリンが足を止めた。
「エラードさん。見えますか? あの小川の右側に他より黒っぽいところがあるでしょう。ああいうのが浮き沼の出来やすい場所です。もうちょっと近寄ってみましょう」
「だ……大丈夫なんですか?」
「大丈夫ですよ。足を下ろす場所さえ間違えなければね」
 ネイリンを先頭に稜線を下りた。途端に踏みしめる地面が柔らかくなる。
「ふにゃふにゃしてますが……」
「荒れ地の地面には長年の間に苔や水草が厚く積み重なっているんです。踏んですぐに水が上がってくる場所は危険ですが、ここはまだ大丈夫」
 ネイリンは用心深く水気の多い場所に歩み寄り、それから手で皆を制止した。
「止まって。そろそろ危ない。エキラ、あそこに行って採ってきておくれ。分かるね」
 ぴるるるる……
 虹色の翼を広げてエキラがパッと飛び立ち、地面の黒っぽい場所に降りた。クチバシで表面の草を毟り取り、ネイリンの肩に戻ってくる。
「いい子だ」
 エキラが銜えている草をそっとクチバシから外す。
「これがウキヌマスミレです。浮き沼の地衣類の上にだけ生えます。これが生えているところには決して足を踏み入れないように」
「わ……わかりました……」
「歩き方さえ知っていれば荒れ地はそんなに危険なところではないんですよ。本当に危険なのは森の方です」
 ネイリンはにっこり笑った。
「じゃあ、道にもどりましょうか」
 地平線に湧き上がった白い雲が荒れ地の上を流れていく。荒れ地を覆う苔の緑、地を這う木の花の紫が絨毯のように荒れ地を二色に染め分ける。あちこちで湧き水が小川になり、きらきらと空の光を反射しながら長いしなやかな蛇のように羊歯の葉を濡らして流れていた。
 美しいと思った。
 自分を呑み込むところだった荒れ地がこんなに美しいところだとは知らなかった。
「奇麗なところなんだな……」
「こんな日の荒れ地は最高よ。でも、こんなお天気は年に何度もないわ」
「じゃあ、やっぱり俺はすごく運がいい男なんだ」
 ニアはなんだか赤くなってつんと横を向いた。
「あの丘まで行ったらお昼にしましょ!」

 一行は乾いた石ころだらけの丘の上でお昼を食べ、エラードはたくさんの絵を描いた。荒れ地の全景も描いたし、ウキヌマスミレや、樹に生っている筒の実、それにさまざまな荒れ地の植物も描いた。何を描いても新鮮で筆はすいすいと走った。ダンタルやアナンタも描いたし、ニアとロリンも描いた。
「ロリン、それは君にあげるよ」
 ロリン・テイパンは口をぽかんと開けて自分のスケッチをしげしげと見つめている。ニアが覗き込む。
「似てる! ロリン、そっくりだわ!」
「これが、オレ……。ど、どうも……」
 だが、ニアの絵に関してはロリンは不満らしかった。
「ニアは実物より美人すぎる」
「そんなことないわよ! ありがとう、エラードさん! また描いてね!」
「ああ、そんな簡単なスケッチなら何枚でも描いてあげるよ」
 本当に気持ちの良い日で、ネイリンは木陰でうとうとし、ダンタルは野生のイモを掘って食べ、エキラは歌い、ちびとアナンタは草地を駆け回って筒の実の樹を昇ったり下りたりした。ニアはお義母さんとお義父さんへの土産にすると言って空になったバスケットに採ってきた筒の実を詰めた。
 荒れ地からの帰り、ネイリンは回り道をして行きとは別の道を選んだ。沼地の脇を通る道だ。
「どうしてですか? 何か危険でも……」
「まあ、黙ってついてきて下さい」
 ニアはロリンと顔を見合わせてくすくす笑っている。何か知っているらしい。
 夕暮れどき、西に傾いた太陽が雲を朱色に染め、大地に投げかけられる光は淡い紫に変わった。影が伸びるにつれ、荒れ地は薄紫から深い青に変わる。
 荒れ地を渡る風が沼に群生する丈の高い草を揺らした。
 しゃらららららら…………
 鈴を振るような澄んだ音が沼地一面に鳴り響く。
 しゃらららららら…………
「な……なんですかこれは……」
「シネイ草の群生地ですよ。風で互いに触れ合って鳴るんです」
「奇麗な音だ……まるで硝子か金属のような……ただの草なのに……」
 身をかがめてシネイ草を手折ろうとした途端、ロリンに腕を掴まれた。
「エラード、手を切るぞ!」
「えっ?」
 ネイリンが笑った。
「ロリンの言う通りですよ。シネイ草の葉はとても鋭いんです。大量の硝子質が含まれているので」
「いま……なんと言いました? 硝子……?」
「ええ、正確に言うと硝子の原材料です。カリカテリアでは確かシリカと言うんでしょう? シネイ草は地中のシリカを吸い上げて茎や葉に溜めるんです。そうやって硝子で茎を補強するから嵐が来ても倒れない。フーバニアではこの草を燃やした灰から硝子を作るんですよ」
「なんと……草からシリカが……」
 エラードは莫迦みたいに繰り返した。
「ええ。フーバニアでは透明な素材は獣の皮や角から作ったものの方が人気なので窓ガラスも硝子器も普及しませんが。硝子は主に輸出用です」
「ああ……ああ、もちろん知ってます! フーバニア硝子はカリカテリアでも有名ですよ! しかし、草から作っていたとは……」
「そうなんです。僕の眼鏡も草が原料というわけで」
 これが、最上級の透明度を誇るフーバニア硝子の秘密だったのか……。
 アカデミーに命じられた調査のひとつがフーバニア硝子の原料であるシリカが埋蔵されている場所を探すことだった。だが、シリカは埋蔵などされていなかった。シリカは沼に生えていたのだ。
「もうすぐ始まりますよ」
 何がですか、と言い終えるより早かった。
 沼が、光り始めた。
「なに……!」
「輝芯草です。シネイ草の群生地には必ず一緒に生えている水草です。いや、輝芯草のあるところにシネイ草が生えると言った方がいいかな」
「光っている!」
「ええ。輝芯草は茎の芯の部分に光を溜める性質があるんですよ。フーバニアは日照が少ないですから、光があるときに溜めておくんです。それが暗くなると光って見える。今日は天気が良かったからたくさん溜めているだろうと」
 エラードは我を忘れてその光景に見入った。沼地一面を覆う丈の高いシネイ草はその根元が透き通ってぼーっと淡い緑に光っている。輝芯草の光はシネイ草の硝子の葉脈を伝って全草を明るく浮き上がらせ、細く尖った葉の先にぽつりと小さな光の点を灯していた。
沼一面に広がるシネイ草は風に揺れてしゃらしゃら鳴り、光の点がちかちかと緑色に輝く。緑の色は淡く透き通り、水面に映えてゆらゆらと揺らぎ、水中でぼんやりと滲んだ。
 風が沼を渡る。
 光を纏ったシネイ草が一斉に揺れた。
 しゃららららららら…………
「なんて……なんて美しいんだ……」
 次第に濃くなって行く闇の中、草の奏でる光と音はあまりに幻想的だった。
 この光景は絵には描けないと思った。どんな巨匠が筆を執ろうとこの美しさを紙の上に留めることは出来ないだろう。
「この景色は一生忘れない……ありがとう、ネイリン……」
「僕も見ておきたかったんです。もうじきシネイ草の刈り取りなので、今見ておかないと来年まで見られなくなるんですよ」
 彼は用心深くシネイ草の間の小さな水草を摘んだ。
「これが輝芯草です。乾燥させて照明に使います。光らなくなったら光に当てればまた光るようになるんですよ」
 摘んだ水草をひとつエラードの掌に置く。エラードは宝物のような草を両手で包んだ。淡い光が内側から手指を照らし、血の色が橙色に透ける。
「ロリン、角灯を持って来てるかい?」
「当たり前だろ」
 ロリンが荷物から取り出したのは透き通った牛の角のようなものだった。その表面には切り子細工が施してある。
「貸してごらん」
「それは……?」
「ロッポンヅノの角で作った角灯【カンテラ】です。ロリンの親父さんは腕のいい角灯職人なんですよ」
 ネイリンはそう言うと、角細工のカンテラを逆さにして上から一つかみの輝芯草を中に入れた。淡い光が透き通った角の表面に施された切り子に反射してきらきらと明るく輝く。
「うわ。奇麗なもんだな……」
「いつかオレだって親父以上の角灯を作るさ」
 ロリンはぶっきらぼうな調子で言った。
 奇麗だ……ここにある何もかもが素晴らしく美しい……。
 そのとき額に冷たいものがぽつりと当たった。頭の上にも、掌にも。
「通り雨だわ」
「フーバニアでは雨が降らない日なんてないのさ」
 ロリンが言う。
「ダンタル、ミズイモの葉を取ってこい。大きいやつだ」
 ダンタルがざぶざぶと水に入り、鉤爪のような爪で大きなミズイモの葉を根元からざくざく刈り取る。
「よし、いいぞ。あと一本だ」
 ダンタルが前脚でイモの葉を抱えて戻ってくるとロリンは茎を手に持ち、大きな葉を頭の上にかざした。
「こうすんのさ」
 まさに傘だった。ロリンは皆にイモの葉の傘を配った。
「ほら、あんたも。画帳が濡れたら大変だろ」
「ど、どうも……」
「急ぎましょう。黄昏時には沼からタソガレドリが上がってきますから」
 海岸で出会ったオソレドリが脳裏に浮かんだ。
「そいつは、凶暴なんですか?」
「足が遅いので陸上では危険ではありませんが……でもまあ、水辺と暗いところでは出会いたくない相手ですね。ときどき沼地に迷い込んだ家畜が引き込まれて喰われます」
「それだけ聞けば充分ですよ!」
 一行はミズイモの葉の傘をさし、輝芯草のカンテラで足元を照らしながら沼の脇の道を急いだ。風にシネイ草が煌めいてしゃらしゃらと鳴る。ニアが歌い出す。
 こぬか雨、霧雨、長雨、地雨、フーバニアは雨ばかり……
 エラードも声を合わせて歌った。
 フーバニアは雨ばかり!