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写真とわたし

「いい写真とは何か」

2020年の夏、わたしはオンライン写真部「まなざしフォト部」に参加する機会に恵まれ、それはそれは楽しく刺激的で充実した経験をした。
そのフォト部の活動のなかで、「いい写真とは何か」「撮りたくなる瞬間はどんなときか」「自分にとって写真とは何か」について考える課題をもらった。わたしが写真を撮るのは主に自分のためではあるが、できればそれが人の心の琴線に触れるようなものでもあってほしい。そんなわけでここでは「誰からも愛されるいい写真とは何か」について考えてみた。

すべての人に愛される写真は存在するか。

写真を愛するひともピントの合わせ方を知らないひとも、そういう枠組みを取っ払って異なる性別年齢立場すべてのひとにとって「いい」と思える写真はどんな写真か、そんなことを考えたら自分のこども時代を写したフィルム写真が浮かんだ。
結婚式のプロフィールムービーを作るために何十年ぶりかに発掘される、あれだ。

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この写真で一番かわいいのは、妹にアイスを譲ったけど、本当はもっと食べたいでも僕お兄ちゃんだし…と葛藤する兄の表情。

現代のように気軽にカメラを趣味にする時代ではなかったはずだから、ここ一番ってときにカメラを引っ張りだして写真を撮っていたのだと思う。家族みんなが集まったお正月、白タイツに黄色帽子とランドセルで入学式、そんなふうに、季節とともに。
かと思えば散らかった部屋でだらだらテレビ見てる写真や、半目で寝ている写真もあったり。でもそんな、え、なんでこれ撮った?なシーンも、そのときは「ここ一番」だったんだろう
自分も大人になり、齢を重ねるほどに過ぎ去る日々の尊さを知るようになった。当時の父や母が同じような気持ちで、ああこの景色を忘れたくないなと思いファインダーをのぞき、シャッターを押し、そんなふうに日々を重ね、家族を紡いできたのかと思うと。グッとくる。

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背後で笑点を見る人物の靴下の汚れがひどい。でも撮影者には娘しか見えていなかったのだろう。
お気に入りの1枚。


ひとの感性は十人十色で千差万別。
だからいい写真というのも、本来はひとそれぞれだと思う。
けれど自分が愛された記録を残した写真は、誰しもが愛してしまうと思う。あの家の本棚か押し入れかどこかでいまも静かに佇む古いアルバム。そこにある写真たちは、有名な写真家も、多忙を極める総理大臣も、進路に迷う就活生も、献立に悩む主婦も、道行くあの人も、誰もの心をほぐす力があると思う。

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言葉はいらない。「いい写真」。

そんなことを考えて、わたしなりの答え。
「いい写真」は、「愛がある写真」だと思う。
耳障りが良すぎて薄っぺらに聞こえてしまうけど、だけどそれだと思う。
愛なんていうと壮大に聞こえてしまうけど、要はシャッターを押すときに、その被写体や景色をちゃんと好きかということだ。(家族愛に限定しない。相手が動物でもモノでも一緒だと思う。)
これは自戒の意味も込めてだけど「いい写真」の「いい」を「good」で考えてしまうと構図や光やレタッチ云々に囚われ過ぎてしまうのかもしれない。「いい」の意味を少し拡大解釈して「like」「love」に変えてカメラを構えれば、もっと「いい写真」が撮れるようになるのかもしれない。


「撮りたくなる瞬間はどんなときか」

少し時間を巻き戻して、わたしと写真との関係を振り返ってみる。
はじめて一眼レフを買ったのは会社の営業先の気のいいカメラ好きおじさんの影響だった。影響といってもほとんどノリで購入したため、海外旅行に行くときに引っ張りだすくらい。帰国するといつも彼(マイカメラ♂)はクローゼットに冬眠していた(冷えた関係だった)。
この時点では、いわゆる「絶景」「映え」なシチュエーションが写真を撮りたくなる瞬間だった。

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世界の絶景ウユニ塩湖にて。
ガイドのおっちゃんが「俺にとってはこんなの見慣れた風景さ」と吐き捨てたのを聞き、当時のわたしは「絶景は日常のなかにあるのかもしれない。自分にとって見慣れた風景も誰かにとっては絶景になり得る」という言葉を残している。
相当、酔っていたな...とは思うが、
日常写真を撮る現在のわたしには、いい言葉っぽく聞こえる。


時が流れ、被写体が息子に変わった。必然的に「絶景」はなくなり、目の前にあるのは「日常」になった。
今でこそ「育休最高。一生育休してたい」と思うが、子育てを始めたばかりの頃は孤独を感じていた。社会と断絶されたような孤独と不安。自分の日常はなんてつまらないんだと思ったりもした。
我が子は未知なる生命体に感じられ、かわいさにとろけるというよりは、この繊細すぎる生き物の呼吸を止めてはならぬという使命感に駆られて、少し怖かった。
だけどだんだんとわたしも母となり、日に日に息子が愛おしくなった。あ、くしゃみした。やだこの服超似合うかわいい。オムツ姿萌え。そんなふうにささいなことで嬉しくなって、なにもないと思っていた「日常」がシャッターチャンスで溢れていった。

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今のわたしが写真を撮りたい被写体は家族、撮りたくなる瞬間は「いとしい」と思ったとき、「今、忘れたくない」と思った瞬間だ。こどもがまだオムツを卒業していないこの時点でさえ、大きくなってしまって…と切なくなることがしばしば。こどもの成長と時間の流れの速さには驚かされる。なので、なるべくそれらを取りこぼさないようにこどもたちの写真を撮る。
「子育てはあっという間だよ」「大変だったけど、みんなが小さい頃が一番楽しかったな」「あんまり覚えてないんだけどね笑」と、いつか母が言った言葉も思い出す。そしてそんなことをいう母と過ごす時間も永遠ではないことに気がついている。こどもを産んでから、自分の両親の写真を撮る機会も増えたように思う。
このまま時間が止まればいい。忘れたくないな。心のどこかでそんなことも思いながら、少しすがるような気持ちでシャッターを切る。

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「自分にとって写真とは何か」

なんとなくカメラを買って写真を撮るようになったわたしの被写体は、そのとき置かれた状況で変わっていく。今のようにこどもたちの写真が撮れなくなっても何かしら写真は撮り続けると思う。(とりあえず死ぬまでにモロッコとインドに行って写真を撮りたい)だってカメラを構えると、普通だったら気にせず通り過ぎていたであろう花だったり空だったり笑える何かだったりに気がつくことがある。わたしにとって写真は、視野を広げ、人生に彩りをプラスしてくれる存在だ。

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写真はドキュメンタリーだと思う。ひとつひとつは1枚の画だけれど、積み重なるとストーリーになる。私はこれからドキュメンタリー長編を撮ろうと思う。「あ、好き」と感じたらすぐシャッターを切る。(そんなわけで最近カメラはダイニングテーブルにポンと置いてある。雑であるが、それでよい)いつかおばあちゃんになってかつてを恋しくなったとき、その時代にタイムスリップさせてくれる道具として、それを手元に置いておきたい。

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とりあえず今は「佐藤家ののんきな日常〜未就学児編〜」を撮っている。やんちゃボーイズ(たまに旦那)とのちょっと面白いとか、あ、かわいいが主役だ。人差し指に愛を込め、2度と戻らない瞬間にピントをあわせ、シャッターを押す。

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それから

最近ふと思ったことがあり、書いておきたかったので書いてみる。

2020年の夏、わたしはいろいろなことを考えた。特に生きることについて考えた。子供たちが大人になるころの未来はどうなっているだろう。もしかすると今よりも生きづらさを感じる未来になるかもしれない。自分の子どもたちに、人生を諦めたいと思ってしまう日がくるかもしれない。
そんなとき、わたしが今撮っている写真たちが、立ち直るとまでは言わないけど、立ち止まるきっかけくらいにはなってほしい。大丈夫だよひとりじゃない、愛しているよあなたの居場所はここにある、そう伝えてあげられる写真が撮りたい。写真を撮る理由がひとつ増えた気がしている。