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値切りの美学

私は仕事で多くの途上国へ行ったのですが、ここでの大きな楽しみの一つはマーケット、いやバザール、で買い物をすることです。いや、厳密に言うとバザールで値引きの交渉をすることです。これには今まで磨いてきた技術、相手の技を見抜く力、心理的洞察、話術、情報、文化背景の理解、経験などが必要とされ、それはそれは複雑で高度なゲームなのです。

そもそも私がなぜこのゲームを楽しむようになったか、考えてみますと、その原点はあの秋葉原にあったのです。高校のころからステレオに凝り、おこずかいがたまると秋葉原へ勇んで行ったものです。このころの秋葉原は今とは全然違い、終戦後の闇市を少し改良したようなものでした。よく探せば今でもそのころの面影はありますが、そのころの秋葉原の猥雑さは私をすごく興奮させるものでした。嬉しいことにほとんどの店で価格交渉ができたのです。先ず定価から30%ぐらい低い価格をこちらが提案します。すると売り手も心得たもので小さな計算機(以前はそろばん)を出して、「お客さん、この辺で。」と、なぜか麻薬の取引をするかのように小さな声で、計算機を他の人に見えないように手で隠して、私に見せるのです。この行為は「この価格はとってもじゃないけど他のお客さんには見せられるものではなく、あなたのための特別価格です。」という暗示を客にかける技です。私などはそれを無視して、「予定していた予算より少しオーバーするのですがねー。」というような用意していた技を出します。そして、第2ラウンドでこちらは25%引きぐらいの値を提示します。すると彼は「ちょっと待ってください。店長に聞いてきますから。」と言ってその場を離れるのです。実際は何をしているのかわかりませんが、「あなたのためにわざわざ忙しい店長を煩わしていますよ。」という手です。これも相手の技と認識してください。そして戻ってきて、「店長もなるべくご予算に合うようにと言ってまして、これはほとんど仕入れ値です。」と言って前より少し安い値を計算機に表示します。最終ラウンドは私が「わかった。ジャー、最後の努力でこれで。」と計算機の値段から5%ほど引くのです。この時、財布から現金を出すジェスチャーをすることも効果的です。これで終わることが多いのですが、終わらない場合、第2と最終ラウンドが繰り返されるのです。秋葉原での何回ものありがたい訓練で基礎的な技術を習得しました。この技術を途上国で応用するのにどれだけ役立ったか、想像できるでしょう。なんでも基礎は大事です。残念なことに秋葉原のこの貴重な文化はもう失われたのではないでしょうか。

このゲームは規則がなく何でもありかというと、私は私なりの規則に従っています。先ず第一に頭に入れておくのは、バザールへ行く第一の理由は,ものを買うのではなく、ゲームを楽しむことだ、ということです。これがはっきりしていないと、何が手段か目的かわからなくなり、ゲームをするのに混乱が生じます。次にこのゲームでの重要な礼儀なのですが、最初にこちらが言った値段まで売り手が下りてきたら、必ず買うことです。この規則に従えない人はこのゲームをする資格がないと思います。この規則によって、どれだけまったくいらないものを買ったことか。でもこれはゲームに負けた時に払うゲーム代なのです。それから売り手も商売で必死なのですから、最初から買うつもりがない場合、このゲームをしてはいけません。売り手から他の潜在的な買い手とゲームをする時間を奪うからです。買う気が全然ないのにゲームを楽しんでいる人をよく見かけるのですが、このような行為はゲームのエチケットに反します。

もちろんゲームの細かいルールは国によって違いますが、基本的には秋葉原で経験したことの変形です。基礎をがっちりしておけば、その変形にもすぐ対応できるのです。また、売り手もすでにある技を磨くこと、新しい技を捻出する努力を日夜努力しているのですから、秋葉原の訓練機能が大きく減少した今、日本人は大変不利な状況に置かれています。(今の若い人は「値切り」なんて言葉知らないんじゃないか。)ただときたま世界中のこのゲームをする人が尊重している暗黙のルールを売り手が破る場合があります。そのことに気づいたときはそこからすぐ去ることです。

ゲームを有利に運ぶためにゲーム場へ行く前に少し準備をした方がいいでしょう。現地の人やホテルの人にどの程度の割引が妥当か、狙っている商品の大体の値段などの情報収集は大いに役立つことがあります。また備えがあるときはゲーム用のユニフォームに着替えます。着古したTシャツ、少し破れたGパン、サンダルなどがあればもう立派なものです。カメラは決してそのまま持たず、新聞紙かなんかにくるめて現地で買った安っぽいバッグに入れておくのがいいでしょう。

また、楽しいからと言ってこのゲームをどこでもやっていいというわけではありません。長い途上国への出張の後、確かかみさんの誕生日のプレゼントを買おうと思い、ジュネーブのレマン湖沿いのちょっと高そうな宝石店に入ったときのことでした。そこには日本人相手の日本人の上品そうな女の人がいて私にいろいろ宝石を見せてくれました。私は一瞬自分がどこにいるか忘れ、「もうちょっと安くしてくれないかな。」などと店の雰囲気に全くそぐわない言葉を吐いてしまったのです。「そんなことをいうお客さんは初めてです。」と軽蔑の眼差しをして言われました。「ちょっと店長と相談してみます。」と秋葉原を思い出させそうなことを言ってそこを離れ、帰ってきて少しまけてくれました。後でつくづく、我を忘れた、やめとけばよかったのにと後悔しました。




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