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英語に強くなる話 10:日本語が障害 ?

これまでの記事でだいぶ日本語と英語との違い、特にアクセント、について話しました。今回は日本語が英語を学ぶのに障害になっている可能性を別の角度、主に制度の観点、から話します。多分最大の問題は日本語がとてつもなく難しく、複雑な言葉なことです。

もうだいぶ前にある言語学者が書いた、普通の大人が普通に勉強して、ある言葉を使えるようになるまでの時間を言葉によって比較したものを読みました。主要な、多くの人に話されている言葉に限っていますが。私の記憶が正しければ、一番やさしいのがイタリア語とインドネシア語で2年間。その次あたりにフランス語、英語、ドイツ語が3から4年間。難しいのはアラビア語と中国語で8から9年間。そして栄光の金メダルは、そうです日本語でナ、ナ、ナント11年間。

私は自分の経験からもこれらの数字はいいとこ行っていると思いました。日本語がチャンピオンになったのはいいのですが、これがどのようなインパクトを日本人に与えるかを考えました。まず、多くの日本人が非常に多くの時間を自国語を勉強するのに費やさなければならないことです。その副産物ですが、言葉というものはすっごく難しいと思ってしまうことです。11年間とは多分普通に話す言葉で、それに敬語、丁寧語、または目下に使う言葉などを入れたらもっと長くなるでしょう。大体日本のそれなりの大学をちゃんと出て、大学でも教えたことがある私が、この微妙な日本語の違いはわからないし、人名、地名などは下手すると3分の1はどう読んでいいかわからないのです。

こういう事情もあり、日本で英語を教える方も、学ぶ方も英語もすっごく難しいはずだと思い、できないのが当たり前となり、いい大人がアメリカに来て、「私ですか、英語は全然ダメです。ワッハッハッ」などと堂々とえばって言えるのです。また、前回も書きましたが、日本語をちゃんと書くというようなとっても重要なことを訓練する時間が無くなってしまうのです。もっともこれは日本の国語教育会、国語の先生のアプローチに問題があるのかもしれませんが。(受験制度もあり、書いたものを評価するのはとても難しいのです。PTAもうるさいでしょうし。)この難しさはあまり知らない日本人同士のコミュニケーションも妨げる可能性があります。どのレベルの日本語で話したらいいかわからないという問題です。よく日本人は日本人同士でもまず名刺を交換しなければ話せないといわれています。前の記事で話した多くの日本人が小さなグループだけでしたあまり話さないということもこの辺に原因があるかもしれません。

簡単な例を挙げましょう。「行く」の過去形「行った」は英語ではほとんどの場合、”went"で済み、せいぜい”went out"でしょう。しかし日本語になると「行きました」がスタンダードでしょうが、「行った」、「行かれました」、「いらっしゃいました」などがあります。英語の"said"に対応するのは「言った」、「言いました」、「おっしゃいました」、「もうしました。」などちょっと思いつくだけでもゴロゴロあるのです。するとあまり英語を話した経験がない人が道で英語で知らない外国人から話されると、相手が日本人であった時のようにまずどの程度の丁寧さで話すかを判断しなければなりません。相手が日本人なら今までの経験である程度すぐ判断できますが、外国人にはどうしていいかわかりません。(ここはインドで外国人をカースト制度のどこに置くかという問題と似ています。)ここでもうしどろもどろし、おたおたしてしまい恥ずかしいシーンが作られるのです。

何しろ日本では、「今の若いものは日本語がなっておらん。」、「あの人は若いのに話し方が丁寧であんな人が私の息子の嫁さんに来てくれればいいのに。」、「部長に対してそんな言い方でいいと思っているのか。」、「もう学生じゃないんだ、社会人らしく話せ。」など話し方で人格まで判断されそうになります。(私も30年以上外国を放浪した後日本に帰ってきて働き始めた時もずいぶん苦労しました。)このような厳しい基準が日本にはあるので、状況を相当しっかりと把握しなければ話せないのです。

この様な奥ゆかしい日本語、日本の文化を大切にすることには反対しません。しかし、それがコミュニケーション、外国語習得の障害にもなりうることは顧慮すべきでしょう。ですから、英語を勉強する、話す場合はこのような日本文化を一時的でも忘れなければ、とてもじゃないですが英語に強くなれません。

話はずれますが、私は、また悪い癖で(テレビ番組「相棒」によくでてくるかな。)ここにはなんかもっと深いものが隠されているのではと思ってしまうのです。このような分析には制度、それに対する既得権益グループをよく使います。そこで思いついたのは肩書だけで生きている権力、金力を持った者の陰謀説です。彼ら(彼女ら)は今や昔のコネ、肩書と金力で威信を保っていて、昔はあったかもしれませんが、現在の世界に役立つような特技も実力もないのです。彼らにとって恐ろしいことはほかの人たちがそれに気づくことです。裸の王様はみんなに立派なものを着ていると思わせなければならないのです。

ここで敬語が出てきます。周りの人が自分に話すときは絶対敬語、それも厳しいやつ、を使わせるのです。するとみんなだけでなく、自分も、この人は偉いんだ、えばっていいんだとなり、権威は維持できます。その結果若い人は全く必要のない敬語だとか、丁寧語 (私はどっちがどっちだかわからないのですが、ある時新聞か雑誌に「正しい日本語の使い方」にそれらの違いが書いてありました。内容はとっくに忘れましたが。)を正しく使うのに時間と労力を使い、もっとずっと有意義な英語の勉強をする時間を奪われるのです。

同じようなことは漢字にも言えます。ここにも「美しい日本語を守る会」というような既得権益グループが存在するはずです。音読み、訓読みだけでもややっこしいのに、訓読みなどはいくつもあるというもうめちゃめちゃなのです。(これは中国は地域、方言によって漢字の読み方も違うのですが、時代によって日本に来た地方が違うのでこの問題が起きたということです。で、日本では「まーいいや、全部あり。」になってしまったようです。)このように漢字の日本語化は無秩序に行われたと思われます。今ではほとんどの日本人はあまり奇異に感じないのでしょうが、これを英語に当てはめるとおかしいことがわかります。”Right”を例にとりましょう。「あなたにはRightがある。」という文脈ではRightは「ライト」ではなく「けんり」と発音し、「そこをRightに曲がってください。」というときはここを「みぎ」と発音するのです。私が何を言いたいかわかってもらえれば幸いです。

またもちろん、このような敬語、漢字をすごい時間と労力を使って習得した人たちは「お前らも苦しむんだ。この俺の努力は絶対に無駄にしない。これで食っていくんだ。」と思い、「美しい日本語を守る」という錦の御旗のもとに敬語、漢字の伝統を守っていくのです。

このように日本語は相当特殊な言葉なので、難しいですが、英語を勉強、話すときは日本語、日本文化を忘れてください。これとの関連で、英語を勉強しているときは、日本語に訳さないでください。特に話すとき、訳していたら絶対に雰囲気に入れません。私が知っている限り、英語が少しでもできる人は決して訳しません。最初は難しいかもしれませんので、頭に日本語を入れる場合、マー大体こんなことだなといいかげんでアバウトの方がいいのです。訳すことをやめることが英語上達の第一歩です。


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